四国征伐=明智家の存亡の危機

この時点で取次役の光秀は、道理に合わない要求を元親に次々と伝える役を負わされ、元親からは色よい返事を得られず、苦しい胸の内をかかえていたと想像される。しかも、「領国は土佐一国」と伝えてからは、元親からは返事を得られなかった。

だが、光秀としては、元親に納得してもらえなければ、自分の身が危うくなりかねない。あらためて光秀は元親に、信長の命令に従わなければ、長宗我部家が滅亡させられかねないと伝えて、必死の説得を試みた。ところが、まさに説得をしている最中に、信長は三男の織田信孝を総大将に据えて、元親の征伐を兼ねた四国出兵の命令を下してしまった。

その出兵の予定日は天正10年(1582)6月3日だった。元親の取次役としての立場を完全に無視された光秀は、このままでは自分自身が、そして明智家が、どんな処分を下されるかわからないと悲観したことは、容易に想像される。

まさに明智家の存亡の危機と受け取った光秀は、四国出兵の前日の6月2日、本能寺に主君たる信長を襲った――。それが「四国説」の概要である。要するに、元親が土佐一国と阿波の南半分の領土で納得していれば、本能寺の変は起きなかったかもしれない。だが、四国出兵が実現されようという状況では、元親は本能寺の変に助けられたことになる。

長宗我部元親の居城だった岡豊城 全景(写真=Saigen Jiro/CC-Zero/Wikimedia Commons

最新研究でわかった信長の行動の真意

光秀が元親と交渉するにあたっては、元親の小姑で元親と光秀を結んだ斎藤利三も関わっていて、信長の四国政策の変更により、光秀以上に立場を失っていたと考えられる。そのことを当時の公家たちは理解していたようだ。本能寺の変後に捕らえられ、京の市内を引き回される利三を見て、彼こそが変の首謀者だと日記に記しているのだ(『晴豊公記』『言経卿記』など)。

また、平成26年(2014)に公表された『石谷家文書』によって、信長の四国政策の変更を受けた光秀の立場について、さらによくわかるようになった。その内容は、熊田千尋氏が論文『本能寺の変の再検証』の抄録に、以下のように簡潔にまとめている。

「『石谷家文書』によって、織田信長と長宗我部元親との国分条件に係る交渉過程において、天正9年(1581)冬、安土において長宗我部元親を巡って、長宗我部元親を悪様に罵る讒言者と近衛前久・明智光秀との間で争論が行われていたことが明らかとなった(また、本能寺の変後に近衛前久が、織田側から光秀との共謀を疑われたが、その理由は、この争論で長宗我部元親を擁護したためであった)。

信長は讒言者の意見を重視して、一方的に東四国から元親を排除する措置に出た。この讒言者について、本稿において、信長の側近で堺代官の松井友閑であることを明らかにした。すなわち、光秀は松井友閑に外交面で敗北したのである」