最も有力とされる「四国説」

明治以降も怨恨説は根強かったが、大正から昭和初年には、これから述べる「四国説」も提唱されるようになった。そして、高柳光壽氏が1958年に上梓した『明智光秀』(人物叢書・吉川弘文館)で、光秀が信長にいだいたとされる怨恨が一つひとつ検証のうえで否定されてから、怨恨説はドラマなどを除いては、ほとんど相手にされていない。

その後は、黒幕説も数多く提唱された。朝廷、足利義昭、本願寺教如、イエズス会などバラエティに富んだ名が、謀反の「黒幕」として挙げられたが、いずれも否定されている。そして、現在では「四国説」がもっとも有力とされている。簡単にいえば、信長が梯子を外すように四国政策を変更したため、立場がなくなった光秀が信長への謀反を起こした、という説である。

長宗我部元親は天正3年(1575)、名門の土佐一条氏を四万十川の戦いで破り、土佐国を完全に統一した。その後、四国全土を攻略しようとしていた元親に手を差し伸べたのが信長だった。そのころ信長は大坂本願寺(大阪市中央区)と戦っており、本願寺に味方をする阿波国(徳島県)の三好氏に手を焼いていた。

長宗我部元親像(秦神社所蔵品)
長宗我部元親像(秦神社所蔵品)(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

そこで、阿波国にも進出しようとしている元親に、阿波三好氏を攻略させようと考えたのだ。天正6年(1578)10月には、元親の嫡男に「信」の字をあたえて「信親」と名乗らせ、元親が四国全土を攻略することを容認している。

織田信長が行った手のひら返し

このときから元親の取次役として、交渉を一手に担ってきたのが明智光秀だった。なぜ光秀が取次役に選ばれたかだが、元親の事績を記した『元親記』によれば、元親の妻が光秀の重臣である斎藤利三の義理の妹である縁によるという。

ところが天正8年(1580)に、10年におよんだ本願寺との戦いが和睦によって終結すると、信長は急遽、四国全土に広がろうとしている元親の勢力を危険視しはじめた。天正9年(1581)9月ごろ、信長は光秀を通じて元親に、支配地域は土佐国と阿波国の南半分で我慢するように伝えている。

しかし、3年前に信長から、四国全土を攻略していいと言われ、実行に移していた元親にすれば、いまさら手のひら返しをされるいわれはない。敢然と拒んだが、それに対して信長は、阿波一国を三好康永、すなわち、当初は元親に攻略させていた阿波三好氏出身の武将に統治させることにした。

そして、天正10年(1582)1月、光秀を通じて元親に、領土は土佐一国だけで納得するように伝えたのである。