信長に従えば日本の歴史も変わっていた…
信長が本能寺で討たれることなく、四国出兵を実現させていたら、長宗我部元親は滅亡させられていた可能性が高いだろう。だが、光秀が本能寺を襲ったおかげで元親は延命し、天正13年(1585)、四国全土をほぼ統一した(統一できていないという説もある)。
ただし、豊臣秀吉の力は見誤った。天正11年(1583)の賤ケ岳の戦いでは、柴田勝家と組んで秀吉に対抗し、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでも、徳川家康および織田信雄と組んで秀吉を敵に回した。
そして天正13年(1585)、秀吉から伊予国(愛媛県)と讃岐国(香川県)を渡すように命じられると、伊予国だけを割譲して和平に持ち込もうとしたが認められず、秀吉の弟の秀長率いる10万の軍勢が四国に派遣され、結局、阿波、讃岐、伊予は没収され、土佐だけが安堵されることになった。
その後は豊臣家に仕えて、関ケ原の戦いの前年である慶長4年(1599)に病没。家督を継いだ盛親は、関ヶ原で西軍に加わり、戦わずに退散したものの領土を没収された。
歴史に「もしも」を言うのは無意味だが、あえて言いたくなる。信長に手のひら返しをされても、信長の力を正しく判断してそれに従っていれば、本能寺の変も起きず、長宗我部家の将来どころか、日本の歴史も大きく変わっていたかもしれない。