難関国立大を卒業し、同期のなかでもいち早く出世

30代からひとつの会社に頼らず、能力を発揮して働き続けることを志しながら、出世コースの波に乗って部長まで上り詰めた。そして、定年退職後に消去法的に再雇用を選択する。定年前後を「明暗」と表現した藤井さんはなぜ、どのようにして、定年後の再雇用で「どん底」を経験した末に、悲惨な事件に巻き込まれてしまったのか。

これまで24年間に及ぶ継続インタビューをもとに、社会情勢や人々の意識の変化を振り返りながら考えてみたい。

最初に取材したのは2000年。東京の難関国立大学を卒業後、大手メーカーに就職した当時39歳の藤井さんは、商品開発部門の課長を務めていた。3年前に同期入社の中でもいち早く課長に昇進した彼に、大企業を中心に浸透し始めていた成果主義人事制度の根幹を成す人事考課(査定)について、中間管理職の立場から話を聞くのが狙いだった。

部署ごとに決められた賃金原資を社員に割り当てるため、一次考課者として部下を相対的に評価しなければならない難しさとともに、自らも上司から評価される苦悩を理路整然と語った後、彼がぽつりと口にした言葉に引きつけられた。

「会社が社員を守ってくれる時代は、もうすぐ終わるでしょうね」――。

この語りをきっかけに、当初の目的を超えて、長年にわたる彼への継続インタビューが始まるのだ。

「組織の駒で終わりたくない」

「バブル崩壊後の新卒者の採用減に始まる企業の人件費削減策が、社員のリストラに進行していくまで、そう時間はかからない。組織の駒で終わりたくないのもありますし、さらに社外にネットワークを広げ、40代のうちに起業したいと思っています。もちろん一流企業に就職して、さまざまな経験を積み、会社の名刺・肩書を活用して社外に同業、異業種問わず、幅広い人脈をつくれているのは貴重です。まあ、そのために必死になって勉強し、一流大学に入ったわけですから。

本来なら今から副業を始めて会社を興す地ならしをしたいところですが、就業規則で禁止されていますから。こういうところは大企業に限らず、日本の会社は遅れていますよね。できることから着実に準備を進めていきたいと思っています」

実際に日本企業で社員のリストラが本格化するのは、数年先のこと。さらに「副業・兼業の促進に関するガイドライン」を厚生労働省が策定し、副業を解禁する企業が増え始めるのは、この取材の20年近く後の18年のこと。藤井さんがいかに企業や働き方の動向を先取りし、将来の身の処し方を計画していたかがわかる。

藤井さんが予測した通り、バブル崩壊を機に始まった人件費削減策が、社員のリストラ、すなわち出向・転籍から早期退職募集、退職勧奨まで進行していた2005年。古巣の営業部の部次長職に就いてから2年余り、44歳になった彼の心境に変化が現れ始める。

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