負傷兵に群がり…

『信長公記』によれば、秀吉はこの鳥取城を囮に使うつもりだったという。安芸国から毛利本軍が後詰めに来た場合、2万の軍勢のうち数千の弓・鉄砲隊を繰り出して矢戦を展開し、その後、毛利軍が秀吉の陣城に押し寄せてきたら、敵を苦戦させたうえでどっと斬りかかり、ことごとく敵兵を皆殺しにし、その勢いで中国全土を一気に平らげようと考えていたというのだ。

河合敦『武将、城を建てる』(ポプラ新書)

しかし毛利軍は鳥取城に大軍を送らず、籠城4カ月で城は陥落してしまった。

落城間近になると、飢えた城兵が柵際に取り付き、もだえ苦しみながら羽柴軍に「ここから出して助けてくれ」と哀願するようになった。しかし秀吉は、容赦なく彼らを鉄砲で撃ち倒した。すると、まだ息があるにもかかわらず、城兵たちは刃物を片手に負傷者たちに殺到し、手足をもぎ取って、肉を剝ぎ、それを喰らったという。

ここにおいて、ついに城将の吉川経家は抵抗を断念。「自分と森下道与、奈佐日本介の三将が腹を切ることで城兵の命を助けてほしい」と降伏を申し入れた。秀吉がこれを了解すると、三将の首が秀吉の本陣に届けられた。

立派すぎる「太閤ヶ平」の本当の役割

約束どおり秀吉は、鳥取城の籠城兵を全て放免した。ただ、彼らの多くは飢えて動ける状態ではなかった。不憫に思った秀吉が、彼らに十分な食べ物を与えたところ、一気に腹に入れたため過半数が頓死してしまったという。

ともあれ秀吉は、味方の損害を出さずに名城を手に入れたのである。なお、鳥取城攻めの陣城・太閤ヶ平は、三木城攻めや高松城攻めの陣城と「比較しても太閤ヶ平は圧倒的な構造を有する」(西尾孝昌・細田隆博著「太閤ヶ平」村田修三監修・城郭談話会編『織豊系城郭とは何かその成果と課題』所収サンライズ出版)ため、「単に秀吉の本陣ではなく、織田信長の出陣を前提に築かれた」(前掲書)という説もある。

じっさい、『信長公記』には、信長が鳥取城へ出向く覚悟があることが記されているので、秀吉は毛利本軍が鳥取城に来援したら、信長の応援を仰いで毛利軍を撃破し、信長とともに中国地方を平らげようと目論んでいたのかもしれない。

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