なんでも「エッセイの言葉」にしてしまう新聞

【大澤】そして、新聞までもが、情動にダイレクトに訴えるような、エモい記事で集客しようとしている。「裁判官の目にも涙」式の見出しはギャップを含むために人々の共感を呼びやすいわけですが、それに類するレトリック面での文章指導が新聞社の現場では実際になされているようです。

その背景には、新聞社がデジタル社会に合わせて主軸をウェブに移行しつつあり、新聞の紙面がもはやウェブ版のダイジェストのようになっているという事情が見え隠れします。ネット流の情動的な書き方へと新聞の言葉づかいを組み替える必要がある。実は昨今のエッセイブームもこれと根は同じではないかと私は見ています。つまり、社会の話も、政治の話も、経済の話も、論評するのではなくて、なんでもエッセイの言葉にしてしまう。

【西田】全くその通りです。ぼくもエッセイは好きだし、政治家が書くものや小説家が書くものもふくめてそれなりに読んではいるんですが、ものすごく増えていますよね。ある種の雑誌作り、紙面作りがそれによって崩れてきているといっても過言ではありません。こうしたものが前面に出すぎると問題なので、ぼくの意見はこれに対するブレーキのようなものだと思ってくれればいいのですが。

言論全般がどの方向へ進むのかという分岐点

【大澤】かつて雑誌や紙面の脇をアクセント的に固めていたエッセイが主軸を占めるということは、エビデンスの対極にある「私」を前面に出すということです。私語りがすべてダメだとは言いませんが、そればかりではまずい。個人のいわゆる「お気持ち」や「思い」に対して、人は共感するか共感しないか以外に選択肢を持ちえないからです。反論しようがない。賛成も反対もないから討議につながらない。絆や連帯はあるかもしれませんが、それは公共性とは別のものです。

そうなると、ハーバーマスの言ったサロンや新聞などから立ち上がる「コミュニケーション的理性」、討議による合意へのルートが断念されているように私には見えてしまう。短期的な自社の維持を優先した逃げ切りの発想としか思えない。その意味でも、今回の話はたんに「エモい記事」にとどまらず、言論全般がどの方向へ進むのかという大きな分岐点を象徴していると思うんです。

写真=iStock.com/BlackSalmon
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【西田】新聞社がどう稼ぐかも問題です。

たとえば、ぼくは都知事選の翌日に放送された「ReHacQ」というネット番組の選挙特番にも出演しました。2部構成で、第1部はぼくと石丸伸二候補が出演し、ごく普通に石丸さんに話を聞いて、80万回再生くらい。第2部は成田悠輔さんやN国党の立花孝志さんたちが出演して、酒を飲みながら5時間ぐらい延々としゃべる内容でしたが、一晩で160万回近く再生されました。それぞれのファンが視聴して、「成田さんのこういう姿が見たかった!」と喜んでいるのです。