日本人は言語というコミュニケーションを手放す瀬戸際にある

【大澤】他方で、現代は知的な上昇欲それ自体が「上から目線」や「意識高い系」といった言葉で煙たがられる時代でもあります。それ以前に、言語的なものが忌避されている。とすれば、近代という時代においてそこを中心的に担ってきた新聞には、私たちとしてはどうしても期待せざるをえません。

【西田】まさに今、日本人は言語によるコミュニケーションを手放す瀬戸際にあるように思います。

コミュニケーションの歴史を紐解いてみると、古典的なものはやはり情動的なものというか、口伝から始まって祭りや語りによってトランス状態になるなど、理性的なものとは違う形で行われてきました。

これが言語文字の発展と技術の発展によって、広範に情報を届ける際には文字を使い、印刷技術を使うようになってくる。さらに時代が下ると、郵便や電話、電信が出てきて、放送網が整備され、ついにインターネットが登場する。

文字による情報伝達は情報量や速度に限りがありましたが、この30年で高速で低コストな電送路が整備され、容量の大きな動画でも瞬時に世界中へ発信できるようになりました。これは文字だけの「低コストだけれど情報量が限られる」コミュニケーションとは違い、声量や声の調子、トーン、表情に至るまで、ほぼリアルタイムに届けられるという革新的な変化です。

もしもマクルーハンが今のメディア環境を見たら……

【大澤】マクルーハンは一直線に規則的に並ぶ文字の誕生によって、人間に論理的な思考がもたらされ、その結果、科学的なものの見方や合理的な考え方が発達したのだと言います。しかし他方では、文字以前にはもっと多面的で豊饒な世界が人間の眼の前には広がっていたはずなのに、それが失われたとも指摘している。むしろ、このネガティブな面にアクセントを置いています。もしも、マクルーハンが今のメディア環境を見たら、文字に頼らないかつての豊かなコミュニケーションの時代が回帰したと喜ぶのかもしれません。ですが……。

【西田】ただ、文字に頼らないコミュニケーションは当然に情動を伴うもので、文字によって行われてきた千年近い理性によるコミュニケーションを凌駕しつつある、というのが今の状況です。

これは確かに避けられない変化なのですが、千年の蓄積をいきなり捨て去って、情動的なコミュニケーションに一気に舵を切るのは危なっかしくてしょうがない。技術の進歩によってコミュニケーションの形態が変わるのは仕方ない。しかし変化を緩やかなものにするという観点が重要なのではないでしょうか。

(構成=梶原麻衣子)
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