今年3月、「その『エモい記事』いりますか」と題した社会学者の西田亮介さんの記事が論争を呼んだ。執筆の背景には「最近の新聞記事は個人の感情に訴えるようなエピソードを優先しすぎて、エビデンスの提示やデータの分析が疎かになっているのではないか」という問題意識があったという。応答記事を執筆した大澤聡さんと新聞が抱える問題を語り合った――。
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写真=iStock.com/Fedor Kozyr
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個人の感情に訴えるエピソードを優先しすぎではないか

【大澤】西田さんが朝日新聞デジタルのサイト「Re:Ron」に寄稿された〈その「エモい記事」いりますか〉という記事が大きな反響を呼びました。私も月刊誌『Voice』(7月号)に〈再「小新聞」化するジャーナリズム〉という論説を寄せて、歴史的な観点から応答せずにはいられませんでした。記事の経緯からお聞かせいただけますか。

【西田】あの記事は、ぼく自身がもともと持っていた問題意識から書いたものです。最近の新聞記事は個人の感情に訴えるようなエピソードを優先しすぎて、エビデンスの提示やデータの分析が疎かになっているのではないか、と。

同じようなことは以前から述べており、例えば委員を務めている毎日新聞の「開かれた新聞委員会」が2023年夏に実施した座談会でも〈エピソード主体の記事に違和感がある。流行している印象だが、世の中が複雑になり、エピソードは一つの例に過ぎないだけに、それを読むことにどれだけの意味や理由があるのかと感じる〉と指摘しています。

朝日の記事では、こうした「エピソード主体」や「ナラティブ(物語)を強調する」傾向を「エモい(感傷的)」と表現してタイトルに入れてもらったところ、非常に大きな反響、反応を得ました。

【大澤】見出しのキャッチーさが先行する形で拡散力を持ったというのは、いかにもSNS時代らしいですね。

「エモい記事のどこが悪い」朝日社内からの批判的な書き込み

【西田】この記事は朝日新聞デジタルのプラットフォーム上で議論を巻き起こしました。有料会員が見られる「コメントプラス」という機能があり、外部の有識者や朝日新聞の記者、論説委員などが記事にコメントを付け、それを読者が読むことができる。ここに賛否両論のコメントが多数書き込まれたのです。

外部の方の書き込みは「私もそう思っていた」という肯定的なものも少なくありませんでしたが、朝日社内の方のコメントは「エモい記事のどこが悪い」という批判的な書き込みがほとんどです。奇妙なまでに。好きな人が集まってるんだな、と強く印象付けられました。

【図表1】「エモい記事」にまつわる論争の経緯
図版作成=大橋昭一

【大澤】「エモい記事」批判へのさらなる批判がやはりエモに駆動されていたわけです。西田さんの記事はシンプルに見えて実はちょっと込み入っていて、よく読むと「エモかエビデンスか」という二元論や、「エモは一切不要」といった全否定ではないんですよね。

【西田】はい。あくまでもバランスが大事だ、と書いています。件の記事で特に言いたかったのも、紙の新聞においては掲載できる記事の総量が決まっているのに、エモい記事に紙面を取られていいのかという点です。紙面はトレードオフですから、掲載される記事があれば、その分、掲載されない記事が生まれます。新聞社の人たちはこんな当たり前のことも想像しないのでしょうか。その点、疑問に感じたので、「それでもそのエモい記事を読者が読まなければならないというなら、理由を明確にすべきだ」としたまでです。