時代も国も宇宙も超えて解放される
祖父も父も作家の家に生まれた私は、本に囲まれて育ちました。父のところには書評を求めて絶えず献本が届き、玄関に山積みになっていました。積み上げられた本や父の書庫から私は勝手に本を持っていき、面白ければ自分の本棚に入れ、合わないと思ったら元の位置に戻すことを繰り返していました。
あるとき父の書庫にいくと、3つある棚のうち一番左の奥がよく歯抜けになっていることに気づきました。歯抜けになっているのは、「当たり」で面白い作品が多く、私が書庫に戻していないからです。その一角にあったのは、青、ピンク、それに白の背表紙たち。ハヤカワ、創元、サンリオという3つの出版社から発行されるSF文庫です。父が「それらはSFって言うんだよ」と教えてくれて、初めて私はSF小説が好きなんだと理解しました。
たくさんの本の中でもとくにSF小説をむさぼるように読んだのは、それが可能性の文学だったからでしょう。
どのようなジャンルであれ、あらゆる物語は人間を描くためにあります。人間を描くためには、人が動く箱庭の設定が必要です。歴史小説ならその時代が箱庭になるし、どこか現実の国を舞台にすればその国が箱庭になります。
一方、箱庭に壁がないのがSF小説です。時間や場所を含めて物理法則を変えられるからこそ、よりプリミティブ、根源的に「人間とはどのような存在なのか」を描くことができる。当時は今のように言語化できていたわけではないですが、その自由さに幼い私は魅かれたのです。
実は学校ではいじめられっ子でした。本を読むのは家の中だけではありません。通学で歩きながら本を開いていたし、学校に着くと図書館に直行。クレジットカードの限度額さながらに限界まで借りて、休み時間や給食の時間に読んでいました。下校時には返却して、また限度まで借りて帰る毎日。本の虫だったから友達がいなかったのか、友達がいないから本に逃げていたのか。どちらにしてもいつも一人で大人しく読書している子どもでした。
今でも思い出すのは『エイリアン』のノベライズを読んでいるとき(今思えばそんな小学生は明らかに変わっている!)。男子が「なんだそれ」と言って、開いている本を摑んできたのです。無性に腹が立った私は、「人が読んでいる本に手をかけるなんて万死に値する!」と教室で暴れて大問題になりました。それから私につけられたあだ名は「アリエン」。今なら笑い話として話せますが、当時は「Alienをまともに読めない奴らにバカにされるなんて」とむちゃくちゃ悔しかったのを覚えています。
もし本がなかったら、私は人生に打ちのめされていたでしょう。でも、本を開けば、今ここではない場所に行けて、学校で学べないことを教えてくれる人がいた。なかでもSF小説は自由であり、時代も国も宇宙も超えて私に違う世界を見せてくれました。私にとってSF小説を読むことは、現実の嫌なことからのエスケープ――逃避であり、解放でもあったのです。
幸い今は友達にも恵まれていますが、SF小説が現実の生活から自分をいったん切り離す外側のスイッチとして機能していることは変わりありません。何か嫌なことがあったりリフレッシュしたいと思えば、本を開いて別の世界に行けばいい。一種の逃げ場があるから、また現実に元気いっぱいに向かい合えます。
競走馬にはいろいろな性格の馬がいます。気が散って集中できない馬にはブリンカーという視界を遮る馬具をつけて、まっすぐ走れるように矯正するそうです。もちろんそれで効果的な馬もいるのでしょう。でも、あちこち見える状態で走ったほうが気持ちの落ち着く馬だっているし、ブリンカーをつけている馬だって、生きている間ずっとブリンカーをつけているわけではないじゃないですか。
少なくとも私は、集中するときとそうでないときのメリハリがあったほうがいい仕事ができる。その切り替えスイッチになるのが読書なのです。
もう少し具体的に言うと、私は原稿を書くときはポモドーロタイマーを使っています。25分作業をしたら5分休憩する時間管理の方法を取り入れたタイマーです。ただ、意識的に5分間ボーッとするのは案外難しく、何もしないとやっぱり原稿のことを考えてしまう。そこでたとえば星新一のショートショートを1本読んだりして頭を切り替えます。
私自身は言葉にかかわる職業についていて、書くこと、読むこと、そして喋ることでお金をいただいています。「何足も草鞋を履いて混乱しませんか」と言われますが、むしろ違う草鞋を履くから別の草鞋の良さが見えてくることもあります。
もしブリンカーがついている状態に生きづらさを感じたら、いったん外してみてはどうでしょうか。ほかの草鞋を履くのもあり。SF小説を読むのもあり。視点が切り替わることで新たに見えてくるものがきっとあるはずです。