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形而上の理念だけではなく形而下の現実にも目を向けよ

つい先日、子供たちと「形而上」「形而下」の議論で盛り上がりました。英国に住む小学生の姪が、「平和」について学校で学んでいる様子をLINEのやり取りで知った長女が「面白いよ」と教えてくれたのが議論の始まりです。姪の学校の授業では、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教それぞれの教義を学びつつ、平和とは何かを議論しているのだそうです。それ自体はとても素晴らしく、人名や年号をひたすら暗記させるだけの日本の教育にはないものだと感心しました。

ただ、こうした学びはどうしても形而上の議論だけに偏ってしまう危険もあるんじゃないか、と僕は指摘しました。「平和」や「信教の自由」「人権」といった理念を並べて議論するだけでは、やはり現実と乖離してしまうおそれがある。形而上的な議論が行き着いた先に、独善的な価値観から殺人に到ったオウム真理教のような悪い先例も世界にはたくさんあるのです。

戦争と平和について語るなら、徴兵された戦場で傷を負ってのたうちまわるような現実にも目を向けなければなりません。平和をもたらすには形而上的な理想も必要だけれど、形而下的な現実も押さえておく必要があるんじゃないか――と、形而上の議論に夢中になっている子供たちに僕はあえて問いかけたのです。

ちなみにわが家の息子が「形而上・形而下とは?」と質問していたので、簡単に説明します。「形而上」とは理想や信念、概念や哲学など目には見えない観念的なもののこと。対する「形而下」とは、目に見える物質的なもののことです。

さて、ここで冒頭の問いに戻りましょう。外国人労働者問題を考える際、「外国人との共生」を訴える左派も、「移民受け入れ反対」を唱える右派も、両者ともに形而上の話しかしていないということに気づきます。

でも、実際にはすでに埼玉県の川口市や蕨市などでは、クルド人など外国人居住者が溢れています。そのうちの多くは、日本政府による難民認定を待っている人たちだといわれています。生活習慣の異なる外国人が多く居住すれば、近隣住民との誤解や生活マナーを巡るトラブルも生じます。こうした形而下の諸問題は現状、自治体に丸投げされています。

シリアからイラクのクルド人自治区に向かう難民の列(2013年)。シリアやトルコなどで迫害を受け国外へ出たクルド難民は数多い。その一部は日本で暮らし、難民認定を待っている。

こうなると、やはり外国人・移民は受け入れなければいいだろうという意見もあるかもしれませんが、労働力不足が深刻化する中で、外国人労働者はすでにさまざまな形で受け入れられていますし、今後増えていくのは確実です。国立社会保障・人口問題研究所によると、2070年には日本の人口は約8700万人に減少し、そのうちの1割(870万人)は外国人になる予想だとか。外国人・移民問題で最も大切なのは、この現実に対する認識です。

では国民の1割を外国人が占める社会とはどのようなものになるのでしょう。教育や税金、就労や社会保障などはどうするのか。残念ながら与党・自民党が「移民は受け入れない」と宣言した段階で、議論は形而上の部分で止まってしまい、形而下の現実的な議論にまで降りてきません。

他方、形而下の議論ばかりでもダメなのです。