公家の間に広がる定子への同情

定子の死に衝撃を受けたのは、道長だけではなかった。定子の生前、公卿たちの多くは最高権力者たる道長に同調して定子を邪険にあつかった。それだけに、負い目を感じて、定子への同情を口にするようになったのである。

定子がみずから出家したのだから仕方ないのだが、その結果、宮廷では一条天皇と事実上離縁しているものとみなされ、生前の定子を周囲は尼扱いした。その急先鋒が天皇の秘書官長である蔵人頭だった藤原行成だった。

道長が一帝二后を実現した際、ドラマでも描かれたように一条天皇を説得したのが行成で、その理屈は以下のものだった。后には皇室の神事を行う任務があるが、出家して仏道に帰依している定子は、神事に携わることができない。だから別に后が必要だ――。要は、定子をもっとも尼扱いしたのが行成だった。

一条天皇像(部分)(写真=天皇一二四代 別冊太陽 平凡社/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

ところが、定子が亡くなったその日、彼の日記『権記』には「長徳二年、事有りて出家、其の後還俗」と書かれている。しかし、彼女が正式に還俗したという記録はない。おそらく行成も、定子を尼扱いした疚しさから、還俗していたことにしたのだろう。

一条天皇の寵愛は定子の妹に

こうした空気は宮廷全体のものになった。たとえば、翌長保3年(1001)10月23日、内裏で庚申待(庚申の日に神仏を祀って徹夜する行事)が行われ、管弦が奏されたことに対して、皇后定子は国母なのに、その喪が明ける前にもう音曲とはなにごとか、という声が上がったという。これも行成が『権記』に記している。

このように定子は、亡くなって1年近く経って、生前よりも強い影響力を放つようになった。道長にとって定子の死は、客観的には、長期的な政権構想のなかで〈幸い〉であったに違いないが、短期的には悩ましく、その存在は脅威を増した面もあったのである。

また、一条天皇は、別の意味で定子に執着し続けた。定子の父である道隆の四女、すなわち定子の末妹の御匣殿みくしげどのを寵愛するようになったのだ。

御匣殿は定子から敦康親王の養育を託されてはいたが、入内していたわけでもない。しかし、とにかく一条天皇の寵愛は彼女に向かった。面影に定子を見たのかもしれない。そこで道長は、敦康親王を御匣殿から引き離し、彰子に育てさせることにした。

それでも一条の寵愛はやむことがなく、長保4年(1002)、御匣殿は懐妊した。むろん、道長は恐れをなしたことだろう。