約8年間亡霊に苦しめられた
一方、第28回で定子が死んだ際も、道長への恨みを隠さなかった伊周は、今度こそ立場を挽回するチャンスと思ったことだろう。皇子の誕生を期待して、妹の御匣殿を自宅に迎え入れた。しかし、彼女は急に体調を崩し、数日寝込んでから息を引き取ってしまった。
結局、道長はこうして、寛弘5年(1008)9月11日に彰子が敦成親王を出産するまで、定子の亡霊に苦しめられたのである。
その前年には、道長は彰子の懐妊を願うべく、険しい山道を登って、山岳修験道の聖地である金峯山(奈良県吉野町)に詣でた。『大鏡』によれば、その道中で伊周が不穏なことを企てているという情報があり、かなり警戒を強めたという。伊周の執念も、定子の亡霊の一種だといえよう。
伊周の執念は、じつは、産まれてきた敦成親王にも向かおうとしていたようだ。敦成が生まれた翌寛弘6年(1009)、伊周の母方の関係者が、道長、彰子、敦成を呪詛しようとしたとして逮捕され、伊周も参内を禁じられた。定子の亡霊は、敦成親王が生まれてなお、健在だったといえようか。