奈良に築いた城と安土城のまさかの共通点

このころ、久秀は大和(奈良県)に侵攻した。これまで、この久秀の行動は、個人的な野心だと説明されることが多かったが、現在では、あくまでの三好家の戦略で、久秀はそれに従ったと解釈されている。

大和を制圧すると、久秀は永禄2年(1561)11月、信貴山城(奈良県平郡町)に入城。翌永禄4年(1563)には、奈良の北端の佐保丘陵に多聞山城を築く。奈良の町および奈良盆地全体を一望できるこの場所へは、これ以前もこれ以後も、興福寺への遠慮から城は築かれていない。その意味で画期的な城には、ほかにも画期的な面が多々あった。

『多聞院日記』などによれば、「四階ヤクラ」がそびえたという。織田信長が安土城を築く13年前に、4階建ての天守が出現していた可能性がある。城内を見学した宣教師ルイス・デ・アルメイダの報告によれば、山を切り崩した平地に多くの塔や堡塁が築かれ、家臣団が集住し、家臣の屋敷は豪華で、ヨーロッパ風の上階や蔵をともなっていた。また、城の建造物は白壁に黒瓦が葺かれ、廊下には日本と中国の歴史物語が描かれ、柱は塗金され、彫刻が施されていたという。

こうした内容はルイス・フロイスや公家の吉田兼右らの記述とも一致する。また、久秀が家臣に伝えた書状からは、調度品を制作するために、金属加工に携わる太阿弥や室町幕府の御用絵師の狩野氏を、多聞山城に派遣したことがわかる。

じつは、信長の安土城も、たとえば天守の内部に「日本と中国の歴史物語」が描かれ、柱は塗金され彫刻も施されていたと、『信長公記』などに記されている。それに、信長はのちに多聞山城の櫓を安土城に移築するように命じ、同じ太阿弥と狩野氏を安土城の装飾のために動員した。安土城は広壮な普請と絢爛豪華な建造物で、訪れた人を威圧するが、そのモデルは多聞山城にあったかもしれないのである。

撮影=プレジデントオンライン編集部
松永久秀ゆかりの信貴山の南側山腹には、毘沙門天を持つる朝護孫子寺がある。阪神タイガースの選手やファンが必勝祈願に訪れる地としても知られる。

実は「将軍・義輝殺害」には関わっていない

朝廷からも幕府からも異例の厚遇を受け、画期的な城を築いた松永久秀。紙数もかぎられるから、ここからはその「冤罪」を晴らしたい。

永禄6年(1563)、三好長慶の嫡男、義直改め義興が病没し、のちに、久秀が毒を盛ったという風聞が生じた。だが、同時代の史料には、久秀は義興をずっと後見し、その死を嘆き悲しんだという記述しかない。

養子の三好義継が長慶の後継になると、永禄7年(1564)5月、長慶は次弟の安宅冬康を殺害した。その原因は、松永久秀が讒言したためだという風聞もあるが、現在では、だれかが冬康を擁立する可能性を消して、義継の後継としての地位を盤石にするためだったと解釈されている。

それから間もない永禄7年7月4日、長慶が死去すると、翌永禄8年(1565)5月18日、義継は1万余りの軍勢を率いて上洛。翌日、将軍義輝の御所を攻撃して、義輝のほか弟や母、側室とその父、それに奉公衆らを討ち取った。

これに久秀も参加したかのようにいわれてきたが、久秀は永禄6年(1563)末、家督を嫡男の久通に譲っていた。このため、三好義継の軍に加わったのは久通であり、久秀はこのとき京都にすらいなかったのである。