質よりも安さが求められる「小売りの現実」

北野さんのお茶は無農薬だったこともあり、とりわけ農産物直売所では人気だった。客も足を止めて、北野さんの話に耳を傾けてくれた。ただし、売るためには値引きをしたり、詰め放題にしたりと、お得感を出さねばならなかったという。

「お客さんの受けはいいのですが、いざ買う段階になると、2割、3割引にしてと言われてしまいます」

手塩にかけて育てたお茶。しかも有機栽培であるため、一般的なお茶と比べて収量も限れられている。でも、客の多くはそれよりも値段が安いかどうかに目がいってしまう。小売を始めたことで収入面では以前よりもマシにはなったものの、薄利多売という構造からは抜け出せなかった。

お茶をもっと高く売りたい。北野さんは切実にそう願っていた。

「絶対に継ぎたくない」と思っていた茶農家5代目

ここでもう一人、北野さんと同じようにもがいていた茶農家のストーリーを紹介したい。永尾豊裕園の永尾裕也さんだ。

永尾さんは嬉野で100年以上も続く茶農家の5代目で、2001年に就農した。子どもの頃から畑作業の手伝いに駆り出されていた永尾さんは、「絶対に継ぎたくない」と思っていたそうだ。ただ、歳を重ねるにつれ、徐々に考え方が変わっていく。

筆者撮影
永尾豊裕園の永尾裕也さん

「高校は進学校で、大学にも行けたんですけど、別に何かをやりたいということはなかった。ただ家業に入らなくてもいい方法はないかなって思いながら、何となく大学に行こうという考えでした」

結論だけを言うと、目標にした佐賀大学農学部は不合格に。腹を決めて、静岡の野菜・茶業試験場に。そこで2年間学び、その後は掛川市の山啓製茶で2年間の修行を積んで嬉野に帰ってくる。当時はちょうどお茶の“バブル”が弾けようとしていたタイミングだったという。

「90年代後半ごろにお茶のペットボトル商戦が始まりました。それに伴って原料の茶葉が足りないからと、メーカーがかなりいい値段で大量に買ってくれたそうです。僕が静岡にいる時に親父が嬉しそうに話していました」

しかし一方で、一般家庭向けのリーフ(茶葉)の消費量が下がり、売れ行きは悪化。さらにペットボトルのバブルも長くは続かない。永尾さんが嬉野に戻ったあたりからそのしわ寄せがやってきた。

いきなり大赤字になるといった絶望的な状態ではなかったというが、永尾さんの表現を借りると「真綿で首を絞められる状態」。つまり、売り上げが毎年5%ずつ下がっていき、徐々に廃業する茶農家が増えていった。