家業を継いだ「茶農家の長男」の本音
「将来はお前が後を継ぐんだからな」
茶農家の長男として生まれた北野さんは、幼少期から親族にそう言われて育った。学生時代は陸上競技で鳴らしたスポーツマン。真っ直ぐな性格の北野さんは特に反発するわけでもなく、高校を卒業するとそのままお茶の道へ進む。
静岡の国立野菜・茶業試験場(現野菜茶業研究所)で2年間研修を受けた後、2001年に嬉野に戻り就農。ところが、北野さんが子どもの頃とは茶産業を取り巻く状況は一変していた。佐賀県や嬉野市が公表するデータを見ると、1995年の嬉野の茶栽培農家は1280戸、生産額は約21億円。ところが、そこから減少の一途を辿り、北野さんが就農した時には500戸ほどになっていた。
昔は後継ぎになれと言っていた親族なども「もうお茶は右肩下がり。お茶だけで食べていくのは難しくなるから、兼業農家という道もあるよ」と申し訳なさそうに口にしたという。
「長男だから継ぐことを決めたけれど、必ずしも明るい未来が待っている感じではありませんでした」と北野さんは話す。
10年足らずで農家数はほぼ半減、親に止められた同級生も…
先に、その未来がどうなったのかを明かしてしまうと、嬉野の茶産業の衰退は加速していると言わざるを得ない。茶栽培農家数は2013年の324戸に対して、2022年は189戸と半分近くに。生産額は10億4800万円から7億4769万円にまで落ち込んだ。およそ30年間で市場規模は約3分の1に縮小した。
北野さんと同じく実家が茶農家だった同級生は皆、早々に家業を継ぐのをやめていた。親の方から止められた人もいたようだ。それなのに、なぜ北野さんは継いだのか。
「畑の面積が大きかったし、他に先駆けて有機栽培をしていたこともあって、どこかやりがいを感じたんですね。お茶を飲むのが好きだというのもありました。何よりも、親父が一生懸命やっているのをずっと見てきたので」
お茶の収入だけでは生活できない
家業を前向きにとらえた北野さんだったが、現実は想像以上の厳しさだった。
「帰ってきて初年度のお茶の収入を見て驚きました。さすがにこれだと来年暮らすのは難しいから、冬場はどこか仕事に出ないと無理だなと痛感しました」
そこで北野さんは10月から翌年3月までの期間、造園業の会社で働いた。何とかして家族を養おうと必死だった。結局、造園の仕事を5、6年ほど続けた。その間に結婚をして家庭を持ったことで、より年収を上げなくてはならなくなっていた。そこで導き出した答えが、市場へのお茶の出荷量を減らし、小売に乗り出すことである。
ただ、これには父親の説得が必要だった。基本的には父と北野さんの2人で切り盛りしていたため、北野さんが行商に出てしまっては人手が足りなくなる。話し合いの末、何とか理解を得て小売を始めた。
とはいえ、営業経験などあるわけではない。そこで頼ったのが、茶農家の先輩・副島仁さんだった。副島さんは現在、副島園の4代目として茶栽培にとどまらず、カフェやバーの経営など手広く事業を展開する、地元のリーダー的存在である。当時既にいち早く小売を始めていた。北野さんは、まずは生産量の2割を販売することを目指し、副島さんの紹介でスーパーマーケットの催事イベントなどに出展した。