永井石油の新入社員には厳しいトレーニングを課した
青木は、これも当時異例なことだが、大卒を運転手に採用し、英語の勉強を奨励した。タクシーの運転手が英語を話せれば、外国人の京都観光客が喜ぶことは言うまでもない。必然的に、MKは通常料金のタクシーサーヴィスと同様、個人ツアーも請け負った。
収益が上がるにつれ、街のメインステーションに、客の待合ラウンジを設け、ドライヴァーに、日本のファッション界の大御所、森英恵デザインのユニフォームを着せた。従業員のサラリーは平均以上。従業員宿舎も提供し、自尊心と自信をつけるために、夜学も奨励した。
1965年までには、2人の息子に恵まれ、次女も生まれた。最初のビルを建てて、本社とそこで、MKタクシーと最初に就職して引き継いだ永井石油(現MK石油)の両方を運営した。永井石油は、彼が引き継いでから、経営が順調になっていた。
全国のトップクラスの学校から、社員を募り始めた。株式の発行も、彼の商法の一環だ。
永井石油の新入社員は、厳格なトレーニングを課される。会社の寮に住まなければならない。朝6時に起床。建物内を清掃し、朝食後、午前8時30分にはガソリンスタンドに出勤する。それから新しい顧客を探しに、セールス活動に出かける。彼らはいつも、バックポケットにボロきれを持ち運び、家々の前に駐車している車を見つけたら、きれいに磨く。
客が最終的に選ぶのは「好ましいと思う相手」
「永井石油のサーヴィスです」
家から出てきたオーナーがびっくりして、いったい何をしているのかと聞くと、彼らはそう言う。オーナーはたいてい、お茶でもいかが、と招き入れてくれる。すると彼らは、ガソリンスタンドのフリーサーヴィス・チケットを手渡す。彼らはこのプロセスを、何度も何度も、毎日毎日繰り返し、ビジネスを成長させていった。
「学習、反省、練習」
寮の壁には、こんな標語がかかっている。
青木はいつも、ビジネスの世界はいかに競争が激しいかを強調する。優位に立つためには、MKは1円、2円を争わなければならない。客は、自分が好ましいと思う相手から、いつ、何を、どこで買おうと決めるのだ、と彼は説く。だからこそ、人間関係がビジネスにはもっとも重要なのだ、と。
1969年には、青木は46軒の家から成る社宅を建設し、やがては持ち家にできるように、社員に住宅ローンを提供。彼の社員は、業界最高のサラリーをもらっているので、持ち家を手に入れることができた。