誰を信用していいか分からなくなる

徐々に、登場人物全員が、何らかの嘘をついていたことがバレ始めます。お金に困っている、夫婦であってもお互いを実は信用していないなどの事情も明らかになります。

アリバイに関しても、最初はアリバイがあれば疑わしくないと思っていたのに、逆に、アリバイを主張する人の方が怪しく見えるようになっていく。どいつもこいつも、ろくでもない中途半端なやつばかり。聖人君子なんていない。誰に対しても、怪しさが増していきます。

この作品は名探偵エルキュール・ポアロシリーズの一つなので、中盤あたりからポアロが登場します。

そして、登場人物たちが、他者の嘘を言い立て始める。

だんだん誰もが不信感のかたまりになっていく。「あなた、あの時本当はいなかったじゃないの」と夫婦がめる。

隠しごとが露わになっていきます。

いい人だと思っていた人にも、実は問題があることが判明する。

ある人物を疑っていたのに、別の場面になると、別の人物が怪しく見えてくる。場面づくりの順番にも作者の意図があります。

次第に、誰を信用していいのか分からなくなっていきます。

アガサ・クリスティー作品の登場人物は嘘つきが多い

そして、ラスト百ページほどになったところで、クリスティーは犯人にある発言をさせます。「ここで分からなきゃだめよ」とでも言わんばかりに。

アガサ・クリスティー氏(写真=Violetriga/F l a n k e r/CC-BY-SA-3.0-migrated/Wikimedia Commons

その後、カードが一枚ずつ開いていくかのように、全体像が見え始めます。最後には、この人しか犯人ではあり得ないという納得の結論に至ります。ポアロは、この作品に限らず、嘘を見抜くということについて重要なことを語っています。

「人を長いあいだしゃべらせれば、どんな話題であっても、遅かれ早かれ正体を現わすというのが、私の確たる信念です」

長くしゃべると、ボロが出る。つまり、嘘のほころびが出てくるというわけです。

クリスティー作品の登場人物は嘘つきが多い。この小説の中で嘘をついていない人はほとんどいません。

日本人の感覚では、嘘は悪い人がつくもの、よこしまな気持ちや後ろめたい隠し事のある人がつくものだと思い込みがちですが、中には善意でつく嘘もあります。

また、こういう嘘もあります。

事件の夜にアリバイがなくて疑われて困っていたら、「あの日、散歩途中で会ったよね」という知人が現れる。そんなはずはなかったと思いはしても、疑いを晴らしたい一心でその言葉にすがりつき、アリバイ成立。わざわざ証言してくれるとは、なんていい人なんだろうと感謝する。