仏具→刀→時計→宝石
徳川将軍のお膝元だった江戸、なかでも御徒町周辺には寺社仏閣が多く、仏具や銀器の飾り職人が多く集まった。武士の必需品であった刀剣を鋳造する刀鍛冶も御徒町に集まり、この地は職人の街として栄えるようになった。
作業効率が高まるようにそれぞれの分野での腕のいい職人が寄り集まり、豊富な材料が一箇所に集まり発展していく。太平洋戦争が終わり、アメ横に進駐軍が時計、宝石を売りに来たり買い求めるようになると、隣接する御徒町が修理加工の場として賑わいだし、匠の街として発展する。
卸・小売店が集まりだして、バブル期には世界中の宝飾が集まり、栄華をきわめた。もともと匠の街から発展し問屋街になったので、見栄えよりも実利第一、銀座・青山のようなセレブ感は無いが、大衆的な雰囲気が漂う独特の宝飾街になった。
戦後はお隣のアメ横の影響もあって進駐軍が時計や宝石を売り買いしだすと、時計バンドの商売や時計修理が盛んになっていく。昔は「時計/眼鏡/宝石」という看板を街でよく見かけたように、時計や眼鏡は宝石と同じくらい貴重な物だった。
小さな婦人用金側腕時計がよく売れるようになって、ますます御徒町に人が来るようになり、1961年には宝石・ダイヤモンドの輸入が自由化されると、御徒町は時計から宝石の街へと移り変わる。
御徒町に流れ着いた人妻
以前、人妻たちの女子会を取材したとき、知り合った30代後半の人妻がいた。白い肌と理知的なまなざし、笑うとどこか異性をその気にさせる快楽的な香りが漂ってくる。ここでは仮に祥子と呼んでおこう。
祥子は九州南部の生まれで、高校を卒業すると都内のある有名女子大に入学、卒業すると大手不動産会社に就職した。
「配属されたのは営業だったんです。社内試験もあるし、営業成績がよければお給料も上がるんです。でもノルマがきつい! 同期は58人いたんです。女子は3分の1。営業に配属された女子は5人だったから、がんばった」
祥子は必死になって飛び込みで営業したり、学生時代の人間関係を使ってマンションの営業をしたが、数千万円の物件はそう簡単に売れるわけではない。
「同期の女子社員が急に契約取りだしたんですよ。向こうはわたしの3倍以上も(契約)取るの。都市銀行の社員寮まとめて契約したときは、もう負けたと思いました。
でも気づいたんですよ。その子、支社長に気に入られて、いつも一緒に営業まわってたの。いつの間にか支社長の愛人になってたんです。帰りも一緒だし、朝も一緒に来るし、社内で噂になりだしたんです。都市銀行の社員寮まとめて契約したのも支社長の力だったんですよ。
そんな大口の顧客を任されるなんて若い女子社員はあり得ない。でもその子は、契約書にささっと自分の名前書くだけで、わたしの(給料の)倍もらっていたんです。そのとき思ったの、社会というのはただ真面目に働いているだけじゃだめ。女の武器も使っていかないとって」