父、母の死と、夫の戦死の知らせ
昭和22年に父の政治さんが亡くなり、昭和24年に母のキエさんが亡くなった。そして昭和28年、シツイさんにとどめを刺すように、二郎さんの戦死公報が届いた。
「ああ、東京に出る時、『結婚して子どもができても、旦那さんが亡くなったら苦労するから』って大人たちから言われたことが、本当になってしまったんだと思いました」
二郎さんの戦死公報が届いて数日後のこと、長男の英政さんが小学校から帰ってくると、なぜか家の雨戸がすべて閉まっていた。
何事かと思って家に入ってみると、真っ暗な部屋の中で、シツイさんと長女が抱き合うようにして座っていた。英政さんが言う。
「姉のみつ子が、『お母ちゃんが一緒に死のうと言ってるよ。みっちゃんはお母さんと一緒ならいいよ。ひでちゃんもここへ来て、一緒にお父さんのところへ行こうよ』と言うんです。2人の目の前に、皿に盛ったネコイラズ(殺鼠剤)が置いてありました」
シツイさんは、子どもふたりと心中を図ろうとしたのだ。しかし、当時小学校3年生だった英政さんには、そんな気持ちは毛頭なかった。親戚の家に走って行って、心中を止めてくれるように頼んで回った。
心中未遂から10日、新しい店を出す決意
それからしばらくの間、雨戸を閉じたままの暗い生活が続いたが、心中未遂から10日ほどたったとき、英政さんが学校から帰ってくると雨戸が開いていた。
シツイさんが英政さんに向かって、「お母さん、お店出すからね」と宣言をした。シツイさんが言う。
「子どもに教育もしてやれないし、この辺の人は髪を切ってあげても米とか野菜とか持ってくるだけだから、床屋を立ち上げる資金も貯められなかった。だからネコイラズを飲もうなんて考えたんだけど、二郎さんが兵隊に行くとき、持っていたお金を全部私に渡して、『子どもだけは大切に育ててくれ』と言ったのを思い出したんです」
ちょうど昭和28年から、母子福祉資金の貸付制度が始まったことも大きかった。シツイさんはこの貸付制度によって、開店資金を工面することができた。それが生きる希望につながった。
昭和28年8月13日、シツイさんは「理容 ハコイシ」を開業した。お盆休みに合わせて開店するという作戦が当たって、「理容 ハコイシ」は開店と同時に大盛況を記録することになったのである。