10年前、おせっかい協会を立ち上げた高橋恵さんは、全国に仲間を作りながらごみ拾い活動、講演活動、SNSでの発信を続けてきた。一貫して伝えてきたのは一人ひとりの思いやりのある行動の大切さだ。その原点には、1枚の紙きれに命を救われた幼少期の経験があった――。
26歳の母と4歳・3歳・0歳の娘
1枚の紙切れで救われた命――、おせっかい協会会長の高橋恵さんはこれまで何百回と、こう噛み締めてきたことか。その紙切れがあったからこそ、今があるのだ。
高橋さんは1942年生まれ、3歳で父親が戦死し、終戦の年に母親は26歳で、4歳、3歳、0歳の3人の娘を抱えるシングルマザーとなった。戦後の混乱期、食糧もなければ仕事もない。母親は意を決し鹿児島から上京し、さまざまな事業に取り組んだものの、廃業に追い込まれることとなった。
「どんなに食べられなくても、国に頼るのは恥だと母は言い続けていました。自分がごはんを食べなくても、子どもには食べさせる。そういうことを母はやって、だけどついに、どうにもならなくなっちゃったんです」
玄関に差し挟まれた1枚の紙
当時、近所で無理心中を図る家族は少なくなかった。事業に失敗し、生きる気力を失った母親はある時、子どもたちと一緒に死のうと決めた。まさにその時、玄関でコトリと音がした。母子が無理心中の一歩手前にいる窮状を察した近所の人が、玄関に1枚の紙切れを挟んでくれたのだ。
「あなたには、3つの太陽があるではありませんか。今は雲の中に隠れていても、必ず、光り輝く時が来るでしょう。それまではどうか、挫けないで頑張ってください」
この言葉で母親ははっと我に返り、無理心中を思い止まった。「死のうとして、ごめん」と母親は泣き崩れ、4人抱き合って泣いた。
何と、大いなるおせっかいか。
「泣けるほど、立派な言葉でした。その紙切れによって、私は命が助かって、今、ここにいるんです。私が雲から出てきた太陽ならば、今度は自分が多くの人を光り輝かせたいという思いで、ここまでやってきました。いつか、世の中のために尽くそうと。だから、死ぬまでおせっかいを続けるわけです」