白河藩主となり、天明の大飢饉でも餓死者を出さなかった

時は流れ、天明3年(1783)、定信は養父の後継として、26歳で白河藩主となるのです。時は、天明の大飢饉ききんの足音が忍び寄っているころ。藩主となったその日に、定信は家老を呼んで「凶年(凶作の年)は珍しいことではない。今までなかったことは幸いである。よって、驚くことではない。凶には凶の備えをなすのが良い。この時に乗じて、倹約・質素の道を教えて、磐石の固めとする」と申し渡します。

そして、家臣の手本となるように、食事を減らし、朝夕「一汁一菜」、昼「一汁二菜」とするのです。藩の要職にある者と議論し、寝食のときでさえも、政治のことを考え続けた定信。その根本には「国が安泰であれ」という精神がありました。

天明4年(1784)の春には、飢饉をしのぐことは困難であるとの話があったので、定信は乾葉や干魚を用意して、江戸から白河に送ります。備えあれば憂いなしの言葉通り、定信の対策が功を奏し、天明の大飢饉において、白河藩では餓死者が出なかったとされます。名君との評価を高めた定信は、天明7年(1787)、30歳にて、幕府老中の首座(老中の最上位)に就任するのです

図表作成=プレジデントオンライン編集部

質素倹約の姿勢と功績を認められ、幕府の老中首座に就任

定信が老中に就任できた背景には、御三家や一橋治済ひとつばしはるさだ(11代将軍・徳川家斉いえなりの実父)の後押しと、江戸で起きた天明の打ちこわしにより、田沼派の一部が失脚したことがありました。定信の老中就任を嫌がる者のなかには、9代将軍・徳川家重の代に「将軍の縁者を幕政に参与させてはならない」との上意(将軍の命令)を盾にするものもいました。定信の実の妹・種姫たねひめは10代将軍・徳川家治の養女となっていたのです。

定信方は、家重の言う「将軍の縁者」とは外戚(母方の親類)を指すものであり、定信はそれに当たらないとの反論をしています。それはさておき、30歳の若さで、老中首座となった定信は、天明8年(1788)には、将軍補佐役にも任じられ、他の老中とかけ離れた存在(立場)となります。そのことにより、田沼派の「何の害もない」(無能)な老中らを罷免にできたのです。