ドラマ「大奥」(フジテレビ系)で秀才として描かれ、父親から次の将軍にと期待されている松平定信。作家の濱田浩一郎さんは「10代将軍家治と同じく、吉宗の孫として生まれた定信は、老中首座となってからも質素倹約を貫き、国民が飢えて困窮しないように寝食のときでさえ政治のことを考え続けた」という――。

吉宗の孫で「寛政の改革」を推進した老中・松平定信

ドラマ「大奥」がフジテレビで放送中です。主演は小芝風花さんで、10代将軍・徳川家治に嫁いだ五十宮倫子を演じています。このドラマの主要人物の1人には、徳川幕府において老中を務め、いわゆる「寛政の改革」を推進した松平定信も含まれています。今回、定信を演じるのは、アイドルグループSnow Manのメンバー・宮舘涼太さん。では、定信とはどのような政治家だったのでしょうか。

定信が生まれたのは、宝暦8年(1759)のこと。父は、田安宗武たやすむねたけ。母は山村氏の娘。宗武の父は、8代将軍・徳川吉宗ですので、定信にとって、吉宗は祖父に当たります。幼少の頃の定信は、病弱でしたが、医師の診療により、死なずに済んだといいます。無事に成長した定信は、勉学に励みます。学問に精進した結果、周囲の者たちから「記憶に優れ、才もある」と称賛されたようです。

田安門
撮影=プレジデントオンライン編集部
東京都千代田区の北の丸公園(旧江戸城)田安門。この門内に吉宗の第二子宗武が御三卿・田安家を興し、定信もここで育った

ただ、儒教の書物の1つ『大学』をなかなか覚えることができず、自分の不才を思い知ったとのこと。それと同時に、周りの人々が称賛したのは、自分に対するおもねりだったかと悟ったようです(定信の自叙伝『宇下人言』)。なんとこれが、定信が8歳か9歳頃のことでした。不才を悟るといじけてしまいそうですが、定信は「日本や唐土(中国)にも名声を高くしたい」と言う「大志」をわずか10歳にして抱くのでした。

定信は12歳のときに自筆の道徳書を作った秀才だった

そして、12歳の時には、夫婦、父子、兄弟、友人など人倫の大義をまとめた修身書(道徳書)『自教鑑』を執筆します。定信は早熟な秀才だったと言うべきでしょう。弓・馬・剣・槍術といった武芸にも精進した定信。まさに文武両道。そんな定信でしたが、明和8年(1771)に父・宗武(ドラマで陣内孝則が演じている)を亡くします。

田安家を継いだのは、兄の田安治察はるあきでした。治察は異母弟の定信を大いにかわいがったようですし、定信もまた治察のことを尊敬していました。そして、定信は、安永3年(1774)、10代将軍・徳川家治(亀梨和也)の命令により、陸奥国白河(福島県白河市)藩主・松平定邦さだくにの養子となります。

ところが同じ年の8月、田安家の当主となっていた兄・治察が若くして病没するのです。治察には妻子はいませんでした。このままいけば、徳川将軍家の一門で、将軍家に後嗣がない際に後継者を提供できた田安家は絶えてしまいます。そこで、鋭敏な定信を再び田安家に復帰させようという計画が起こりますが、実現せず。定信の田安家復帰を阻んだのは、幕府老中を務めた田沼意次(安田顕)だったとされます。才能ある定信が、田安家に復帰し、将軍に就任することを恐れたからだと言われます。