「これが結論です」で終わるものは対話ではない

以上の簡単な説明でわかるとおり、訂正する力とは、そもそも生きることの原点にある力です。そして、あらゆるコミュニケーション、あらゆる対話の原点にある力でもあります。

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ミハイル・バフチンというロシアの文学理論家がいます。『ドストエフスキーの詩学』という有名な本を書いているのですが、そこで対話が重要だと述べています。

ただ、それはふつうの対話ではありません。バフチンによる対話の定義がどういうものかというと、「いつでも相手の言葉に対して反論できる状況がある」ということです。バフチンの表現で言うと「最終的な言葉がない」。

つまり、だれかが「これが最後ですね。はい、結論」と言ったときに、必ず別のだれかが「いやいやいや」と言う。そしてまた話が始まる。そのようにしてどこまでも続いていくのが対話の本質であって、別の言いかたをすると、ずっと発言の訂正が続いていく。それが他者がいるということであり、対話ということなんだとバフチンは主張しているわけです。

これはとても重要な指摘だと思います。よくひとは、対話が必要だ、話しあってくださいと言います。でもそれはたいてい、なんらかの合意や結論に達するための手続きにすぎません。バフチンは、そういうものは対話ではないと言っている。

対話とは共通の語彙をつくっていく作業に近い

言葉を発するとき、ぼくたちの頭のなかには抽象的な概念が確固なものとしてあるわけではありません。Aさんのなかに概念があり、それがBさんに渡されて、Bさんがそれを理解するという過程ではないのです。

では対話で起こっていることはなにかというと、むしろ一緒に共通の語彙ごいをつくっていく作業に近い。言葉を交わすというゲームを遊びながら、同時に言葉を使うルールを一緒につくっていくような行為なわけです。

言葉の意味は事前に確定していると思うかもしれません。でも意外とそうでもないのです。たとえ意味が確定していてもニュアンスが異なることがある。

たとえばさきほどの例だと、リベラル派は軍の存在について当然のように否定的に語る。けれども保守派はそうではない。ニュアンスが違うわけです。