哲学は「正義か悪か」を判断するだけではない

しかしぼくは、家族と公共を、閉じた家族と開かれた公共というかたちで対立させること自体が間違いだと考えてきました。家族と公共は対立しません。それは両方とも人間関係のネットワークを機能させるための幻想の名前にすぎず、その一つが「家族」と呼ばれているだけなんです。そういう議論をしているのが『訂正可能性の哲学』です。

東浩紀『訂正可能性の哲学』(ゲンロン)

いずれにせよ、人間はひとりで生きることはできない。個人がみなバラバラに自由に生きていて、それでもすべての公共サービスが回るような国家像は考えることができないし、もしそういうものがあるとしたらそれは全体主義国家に近くなると思います。家族は幻想かもしれないけど、それには現実的な役割がある。

いまの「哲学」は、客観的な現実(エビデンス)を突きつけ、正義か悪かの判断を迫るような単純な議論ばかりになってしまいました。けれど、ぼくはそれとは異なった仕事をしていきたいと考えています。

(構成=伊田欣司)
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