新型コロナ、ウクライナ戦争、ChatGPT……。これらの影響を、私たちはどう考えるべきなのか。哲学者の東浩紀さんは「人間は目の前の危機に過剰反応しやすい。知識人や言論人は、そうした社会の過剰反応に対して、別の見方を示すべきなのに、それができなくなっている。これはまずい傾向だ」という――。
哲学者の東浩紀さん
撮影=西田香織
哲学者の東浩紀さん

リベラルと言われる言論人は無抵抗だった

――東さんは6月19日に『観光客の哲学 増補版』(ゲンロン)を出しました。2017年に毎日出版文化賞を受賞した既刊に新章2章2万字を追加されています。さらに今夏には姉妹編となる20万字の新著『訂正可能性の哲学』を刊行予定です。なにが執筆の動機になったのでしょうか。

【東】ここ数年、特に新型コロナとウクライナ戦争を通じて強く思ったことがあります。それは、人々はSNSなどでさまざまに理屈を並べても、何かあればすぐ一方向に流れされてしまうということです。そして知識人、言論人と呼ばれる人たちは、その大きな流れにほとんど抗うことができない。

例えば、リベラルを自認する言論人の多くはもともと生権力を批判していた。だからコロナが蔓延したときは政府による国境封鎖やロックダウンにみんな反対すると思っていました。しかし実際にはすぐ賛成した人が多かった。これはどういうことなのか、と。

「学問って何のためにあるんだ?」

医学と権力が結びつくと怖いとこれまで政府を批判していた人たちが、「命を守るためにはしょうがない」と言いはじめる。これまで理論的に批判していた権力の在り方が現実に現れたのに、あっさり肯定したわけです。リベラルに限らず、人間とはなんて軽率なんだと思うことが次々に起こりました。

コロナ禍の最中は「感染症対策が前提の生活になる」「働き方や都市の在り方は大きく変わる」「新しい生活様式だ」「ニューノーマルだ」とさかんに言われました。当然ながら、人類は過去に何度もパンデミックを経験している。感染症によって人類の生活様式が変わるなら、とうの昔に変わっています。

人間は目の前の危機を過大評価し、過剰反応します。本来知識人はそういう流れに抗うためにいるはずですが、実際にはまったく抗うことができず、むしろ肯定する論理を作るようになる。そして知識人の意見にすがる人が流れをさらに大きくしていく……。自己否定みたいですが、「学問って何のためにあるんだ?」と疑問がわいてきました。