「観光客的」とは「自分はわからない」と自覚すること

そもそも、抵抗すること自体にロマンチシズムを感じる人たちは、実は時代に流されやすい人だと思います。その意味では「ソクラテスは死刑になるまで抵抗したから偉い」と称賛する人はむしろ危険で、「ソクラテスってそういうへそ曲がりな奴だよな」と冷ややかに見つめる人のほうが流されないし、むしろソクラテス自身の態度に近い。

――時代と少し距離をとるスタンスが、本書に書かれている「観光客的」ということですね。

【東】観光客的であるために大切なのは、つねに「自分にはわからないことがある」と自覚しておくことです。

新型コロナでぼくがすごく困惑したのは、ネットに“自称専門家”が大量に出現したことです。よく知らないことを熱心に調べた結果、他人に罵詈ばり雑言を浴びせたり、挙げ句の果てには「ワクチンは危険だ」なんて変な方向へ走ってしまう。自分で考えるのは大事です。けれど自分の頭を過信するとQアノンのような陰謀論を信じてしまうことにもなる。

観光客的な距離感には「自分にはわからない」という諦めや謙虚さが必要です。自分はしょせんは事態を傍観するだけの観光客であって、当事者じゃないから本当のことはわからない、と距離をとる。

東浩紀さんの近著
撮影=西田香織

中途半端なコミットメントしかありえないと認める

例えば、6月に施行されたLGBT理解増進法がある。「当事者は望んでいない」という人もいれば、「当事者にとってはまだ不十分」という人もいる。お互いに「あっちはニセモノの当事者だ」と言い合っているわけです。また、女性の権利の侵害だと訴える人々もいます。

もし自分自身が当事者なら、あるいは女性なら、ぼくもどちらかの仲間になれるかもしれない。でもそうじゃなければ「わからない」という距離感しかとれない。むろんぼくにも意見はありますし、個人的に尋ねられれば答えます。しかし、わかったフリをして、安易に正義を振りかざせる問題じゃないと思うんですよ。

この世界は複雑だから、全部にわたって知り、正しい判断を下すことはできない。ほとんどのことはわからない、という前提に立つべきです。ただ、だからといって、完全に無関心でもいられない。中途半端な関心、中途半端なコミットメントしかありえないと認め、個別の場面でできることを実践していくのが観光客的な態度です。

哲学者の東浩紀さん
撮影=西田香織