半世紀以上前の「国民総背番号制」への反発
話は、いまから半世紀以上前、佐藤栄作内閣の後期、1968年にさかのぼる。個人の所得を正確につかむ、特に、高額所得者から税金を集めようと、通称「国民総背番号制」の導入を試みる。
当時は、クロヨン(9.6.4)、トーゴーサンピン(10.5.3.1)などと言われていたからである。この言い方は、サラリーマン(給与所得者)・事業所得者・農業所得者、それぞれの所得捕捉率、つまり、税務署がどのくらい稼ぎをつかめているかの割合を示していた。
それぞれ9割対6割対4割、ないしは10割対5割対3割、そして政治家や宗教家は1割という意味であり、佐藤内閣としては身内に厳しくするための制度だった。
にもかかわらず、身内以外の世論から猛烈な反対の嵐に直面する。
奇妙な和製英語に「恐れ」がこめられている
当時を代表する雑誌「朝日ジャーナル」は、1972年1月28日号で「個を否定する国民総背番号制」という大特集を組む。著名な評論家だった北沢方邦による論文タイトル「高度管理社会への里程標」にあきらかなように、国が一人ひとりを管理する、それに対する強い反感が広く共有されていた。
「ピン」、つまり、1割しか稼ぎを把握されていない政治家たちは、こうした反発を利用し、断念に追い込んだのである。
政府は1980年に「グリーンカード制度」と看板をかけかえて、制度化を目指したものの、このときも、国が個人の情報を管理することへの懸念の声が高まり、実現しなかった。
これほどまでに「国民総背番号制」は嫌われてきた。英語では「個人番号」と言うしかない仕組みを、日本語というかカタカナで誤魔化して「マイナンバー」と言わなければ、今回もまた導入できない、そんな恐れが、この奇妙な和製英語にこめられている。
2016年1月にはじまった「マイナンバー」は、50年近い日本政府の悲願だったと言えるだろう。