背景にある「個人を知られること」への恐怖感
命を人質にとられているから、マイナカードに反発するのか、と言えば、それだけではない、というか、そうではないだろう。
すくなくともマイナ保険証に関しては、医師たちの主張は、刺し身のツマ程度の賑やかしであって、岸田内閣の支持率を急低下させるほどの影響力はない。
では、なぜ、ここまでマイナカードは耳目を集めるのか。
その理由は、私たちの個人情報をめぐる感覚にある。
最近、地方自治体を中心に職員の名札のフルネーム表記をやめる例が見られる。佐賀県佐賀市では、ネットで検索すれば「個人の住所まで大体分かる」としてストーカー被害を懸念する意見が出たからでもあるという(*5)。
地方自治体の規模によっては、住所どころか、車のナンバー、家族構成や交友関係まで、お互いがお互いのことをすみずみまで知り尽くしあっているところも少なくないのではないか。
にもかかわらず、あるいは、だからこそ、私たちは、「個人を知られること」への警戒感を強めている。
かつての「中間集団」は崩れ去った
向こう三軒両隣、は死語になって久しい。
「隣近所」はもちろん、「世間様」のように外面を重くみる態度は、いかにも昭和な感じであって、もはや私たちの生活には馴染まない。
かつては、町内のどこの誰が、どんな生活をしているのかは、暗黙の了解どころか、みんなが知っていた。いまや、町内会や自治会といった、社会学の用語でいう「中間集団」は、ほぼ崩れさり、「個人情報」は手厚く守られているし、守られなければならなくなった。
いまさらノスタルジーに浸って古き良き昭和の生活を取り戻そう、などとは言えないし、まったく現実的ではない。
むかしも「個人情報」が知られるのは嫌だったかもしれないが、あくまでも顔の見える範囲に限られていた。「個人を知られること」が、誰なのかを把握できていた。
「マイナカード」が嫌われるのは、「国民総背番号制」という亡霊が復活したからではない。そうではなく、「個人を知られること」が、とめどなく広まっていき、どこの誰が、自分の情報を知っているのか、あるいは知らないのかをつかめないから、である。
不特定多数の人たちに、知られているのか/知られていないのか、すらわからず、ただ「便利だから」とか、「ポイントがもらえるから」といった、目先の利益に引きずられて、つい「マイナカード」を取得し、健康保険証との一体化も、公金受取口座の指定もしてしまった、その迂闊さに、後悔しているからではないか。
この問題は、デジタル庁を担当する河野太郎大臣を交代させるといった、小手先の対応では済まないだろう。
それほどまでに、私たちの「個人を知られること」への嫌悪感が高まっているし、それは一朝一夕には解決策を見いだせない、根深い、日本人らしさそのものの変化だからである。
(*1)「日本での生活に便利! マイナンバーカードを作りましょう」
(*2)(天声人語)マイナカードと保険証
(*3)新型コロナ 「第9波が始まっている可能性」政府分科会 尾身会長 NHKニュース、2023年6月26日12時20分配信
(*4)「10割請求、776件以上 マイナ保険証『運用停止を』―保険医連合会」 時事ドットコム、2023年6月19日16時19分配信
(*5)「名札」フルネーム表記やめます 佐賀市職員、名字のみに変更 個人の行動詮索など発生 職員の安全に配慮
2023年4月20日8時16分配信