グループの力に守られるという選択

よく「いじめられる側にも問題がある」という表現も聞きますが、それもはなはだ疑問です。

例えば僕の場合は、大阪での小学6年生時代には友達関係で摩擦を生じましたが、学校外の場でたまたま出会った中学生グループと仲良くなったことで、急に力関係に変化が生じました。

計算したわけでも、意図して中学生グループに取り入ったわけでもありません。本当に偶然、通っていた銭湯で仲良くなった中学生が、たまたま僕の小学校出身で、やんちゃグループの上位に存在する立場だったらしく、誰が何を言うでもなく、急に小学校での友達関係の摩擦がストップしたのです。その時に気づきました。力のある者にくみするのも時には必要なのかもしれない、と。

その時の体験から、さらに荒れた中学に進学した僕は、学校一荒くれ者がつどうとされていたラグビー部に入りました。どうせ荒れているなら、そのなかでダントツに荒れているグループに入ってそのグループの強さに守られるほうがいいだろう。もちろん荒れているグループの中で少々理不尽な使い走りなど嫌なことがあるかもしれない。それでもグループ外で荒くれの先輩たちに絡まれるよりマシだろう。まさに「比較優位」に基づく、より「マシな」選択をしたのです。

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一匹オオカミ的に生きるのは至難の業

組織の中で一匹オオカミ的に生きるのは、相当の腕力や抜きんでた何かが必要です。そのような特別な能力が備わるまでは、組織の中の集団すなわち派閥の力を利用した方が、守られるべきところは守られると当時の僕は考えたわけです。

その考えは間違ってなかった。荒くれ連中の中で、僕は自分自身の立場を守ることができました。派閥Aに属している人間に対して、派閥Bの人間、派閥Cの人間、ましてや派閥に属していない人間は、気軽に手を出すことはできません。派閥に属する一人にちょっかいでも出そうものなら、それはその派閥全体に喧嘩を挑んだも同じことになるからです。集団的自衛権の論理です。

実際どこのクラブにも属さない帰宅部の友人は、道端で他のクラブの先輩格に出くわし、ちょっかいをかけられないように苦慮していました。いつもコソコソと帰宅ルートを計算していた様子を見ると、つくづくラグビー部に入ってよかったと感じたものです。