身から出たさび

結婚生活の破綻について、ダイアナ妃サイドの主張が公になったのは92年、伝記作家アンドルー・モートンがひそかに彼女の協力を得て著した『ダイアナ妃の真実』が出版されたときだ。

それまで環境運動に携わる様子をメディアに小ばかにされることはあっても、チャールズの人気は国民の間で高かった。しかし不倫の事実が明らかになると状況は一変した。

世論調査会社イプソスモリによると、91年段階で「チャールズは良い国王になる」と思う人は82%だったが、離婚した96年には41%にまで激減した。国民の反発は強く、英国国教会からも、国王にすべきでないという意見が飛び出した。

教会内の伝統派として鳴らしたヨーク大執事ジョージ・オースティンは、93年12月にBBCラジオでこう語っている。「チャールズは神の前で厳粛な結婚の誓いを立てた。今の話が本当なら、すぐさまその誓いを破ったということになる。人の信頼を裏切り、神への誓いを破った。どうしてウェストミンスター寺院で戴冠式の誓いを立てられよう」

ダイアナ妃の死

97年、パリ市内を車で移動中、パパラッチに追われたダイアナは交通事故で死亡した。当時ウィリアムは15歳、ヘンリーは12歳だった。2人とも、父チャールズを含む王室メンバーと共にスコットランドのバルモラル城に滞在していた。悲報を伝えたのはチャールズだ。

その時のことをヘンリーは回顧録『スペア』につづっている。

「変なふうに私の顔を見つめた。私のことをあんなふうに見つめたのは初めてだった。恐れがあったのかな。私は『どうしたの』と尋ねた。父はベッドの端に座り、私の膝に手を置いて、『あのね、ママが交通事故に遭ったんだ』と言った。そこで私は思った。事故……か、でも、きっと大丈夫だよね」
「そんな思いを抱いたことを、今も鮮明に覚えている。そして本当にママは大丈夫だと、パパが確認してくれるのを、じっと我慢して待った。でも、確認してもらえなかった。すると心の中で変化が生じた。黙ったまま、パパ、お願い、神様、お願い、そんな、まさか、と」

ヘンリーはチャールズを「親となる準備ができていない」人物だったと評している。「まして、ひとり親なんて、そんなの無理だ」

「公平を期して言うと、父も努力はしていた。夜、私は父の執務室に向かって叫んだものだ。もう寝るよ! と。すると必ず『すぐ行くよ』と大声で朗らかな返事が返ってきた。そして言葉どおり、数分後には私のベッドの端に座っていた。私が暗い所を嫌いなのをよく心得ていて、私が寝つくまで、ずっと顔をなでてくれたものだ」