何が何でも「世界一を取る」

追永が若き技術者たちを叱咤激励する一方で、追永から絶大な信頼を寄せられ、ネットワークづくりを任されていたのが、次世代テクニカルコンピューティング開発本部統括部長、長屋忠男である。長屋も追永と一緒に10ぺタフロップスに対応するネットワークをつくってきた。

次世代テクニカルコンピューティング開発本部統括部長
長屋忠男

全く前例のない、解を自分たちで導き出さなければならないソフトウエア開発に対して、長屋を中心に約200名の技術者が、毎日立ち向かっていた。長屋を悩ませたのは、スパコンの開発に携わったことのある技術者は全体の4分の1程度で、他の若手社員を教育しながら、作業しなければならなかったことだ。追永を“動”とするならば、“静”の長屋は、若き技術者たちが悪戦苦闘する様子を辛抱強く見つめ続けた。

このように、スパコンの世界は、多くのベテラン社員の経験と知恵で成り立っている。営業面は山田昌彦、開発面は追永、長屋たちが担ってきたとすれば、旗振り役の文部科学省、理化学研究所の間に入り、その「調整」の役割を担ってきたのが、パブリックリレーションズ本部シニアプロフェッショナルの堀越知一である。

それぞれのところから噴出する要求、不平、不満、不安などを最適化に向けて調整する、「猛獣使い」のような役回りを続けてきた。技術的な課題、予算の問題、スパコンへの投資を不安視する社内の声、3カ月に一度は発生する、挫折と怒鳴り合い、そして和解と明日への希望。

事業仕分けで野依元教授たちノーベル賞受賞者たちのメッセージを聞いたときには、堀越の目からは涙がこぼれた。

パブリックリレーションズ本部シニアプロフェッショナル
堀越知一

「京」プロジェクトは、完成直前にもアクシデントに見舞われる。2011年、未曾有の被害をもたらした「3.11」の東日本大震災である。「京」は富士通の自社製品である半導体をはじめとして部品のほとんどが“日本製”で作り上げられていた。使用するケーブル、板金、電源の開発を依頼した企業のいくつかは、東北地方にあり、少なからず地震等の被害を受けていた。ところが、どの企業も、震災の2日後には、細々と作業を開始していたのだ。なぜか? 彼らには富士通の開発者らとともに、共有する思いがあったからだ。何が何でも「世界一を取る」という思いである。

こうした多くの人々の尽力により、「京」は予定より前倒しで完成した。11年6月に8ぺタフロップスを記録して世界最速となり、11月には10ぺタフロップスを達成した。

「スパコンは、イノベーションを起こすためには不可欠な道具になりつつある」

山本社長のこの言葉は、イノベーションを起こし続けてきた山本社長自身の技術者としての矜持、富士通が進むべき道を示唆しているかのように聞こえる。

(文中敬称略)

※すべて雑誌掲載当時

(大沢尚芳、永野一晃=撮影)
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