スパコンの開発はモノづくりの現場
新興国への足がかりをえるべくもがく富士通。そしてスパコンという巨大投資への過程においても、さまざまな難問が存在する紆余曲折の連続で、設計・開発から完成への道は険しかった。
90年代、富士通はスパコン(NWT「数値風洞」)で一度頂点を極めている。当時、欧州先進国の公的機関、ドイツやフランスをはじめとする主要国の気象庁など、大学、研究機関に次々と富士通のスパコンが納められ、欧州市場を席巻していった。だが、安全保障を盾に、スパコン法まで存在する米国にだけは、輸出することはできなかった。
初回(>>記事はこちら)で、富士通の山本元社長が語った、入社3年目に言われた52年から始まった富士通の国産コンピュータの夢は、“坂の上の雲”の米IBMを仰ぎ見ながら駆け上がってきた歴史でもある。
米IBMに追いつき、追い越せと富士通の若い技術者たちが、昼夜を問わず口角泡を飛ばして議論し、研究開発に没頭しながら、富士通のDNAを刻み続けた。
挫折も経験している。90年代後半、富士通は財務状況の悪化で、巨大な投資が必要なスパコン開発から、確実な利益が見込める汎用技術の活用へ舵を切った。
「スパコンというものは、研究開発を続けていなければ、技術の継承が難しくなる。『京』の開発のタイミングがあと1年でも遅ければ、これまで富士通が築いてきたスパコンの技術の継承ができなかったかもしれない。ギリギリのタイミングのスタートでした」
昼夜を問わず、研究開発の現場に立ち続け、スパコン開発部長などを歴任したフェローの高村守幸は、こう振り返る。
スパコンの開発は、日本が得意とするモノづくりの現場そのものだ。熟練の技術者が持つ豊富な経験と、経験を活用した微妙なさじ加減で、スパコンをつくり上げていく。技術者100人のうち、スパコンの開発に携われるのは、せいぜい2~3人という精鋭プロジェクトである。
05年に文部科学省の主導で始まった「京」の構想だが、同構想に富士通が参画するかどうか、社内では喧々諤々の議論が続いた。当時、富士通はスパコンから撤退したほうがいいような雰囲気も社内に存在して、かつての「世界一のものを作って当たり前」という富士通の矜持も薄れかけていた。
「次世代スパコン 経営幹部報告」の資料が手元にある。そして、富士通がスパコン開発に参画すべきかどうかを議論した会議の回数、日時が書き込まれている。夥しい回数の議論の末、やっと「京」プロジェクトに参画することを決めたことが、読み取れる。こうした経営判断によって、富士通のDNAを継続させ、新興国をはじめとする国々へのビジネスチャンスを広げるきっかけができた。
(文中敬称略)
※すべて雑誌掲載当時