また、私は経営者であるとともに製鉄業にかかわる技術者だが、経営や技術に精通しているだけでは説明責任は果たせないとも思った。相手に理解を促すためには、歴史や文学、芸術など、専門分野にとどまらない幅広い知識、教養が必要となる。新渡戸の『武士道』で、私はまずそのことを痛感した。

武士道の真髄は「ノーブレス・オブリージュ」にあると新渡戸は述べている。

「ノーブレス・オブリージュ」とは、武士階級の「身分に伴う義務」である。そして、武士道の徳目の中心に「義」を据え、義を行うための徳目として、勇、忍耐、仁、誠、名誉などについて説いている。

義とは「正義」のことだが、私が特に注目したのは、このうちの義と勇の相関関係である。勇は義、すなわち正義を行う勇気のことだ。この2つを新渡戸は「双生児の兄弟」であると述べている。

武士は自らを公的な存在と任じ、義に背く行為、つまり私利私欲に走ったり、嘘をつくことを恥とした。また、『武士道』には「実践躬行(じっせんきゅうこう」「知行合一(ちこうごういつ)」という言葉が出てくるが、要は口先だけの正義はダメ。正義を自ら実践することが「身分に伴う義務」を負う者の務めとしている。

「ノーブレス・オブリージュ」は、企業人にもあると思う。私は、戦前の天皇機関説になぞらえて「社長機関説」を唱えている。組織のためにトップがいるのであって、トップのために組織があるのではない。つまり、社長は組織を動かすための機関にすぎないという考え方だ。

私の社長就任中に、川崎製鉄とNKKとの経営統合があった。私は統合に向けた交渉の際、一貫してダメなものはダメと厳しく言い、正論を通した。それは私人としてではなく、公人、機関として経営統合のあり方を考えたがゆえだったが、思えば『武士道』の影響を多分に受けていたからかもしれない。『武士道』には、18世紀プロシアのフリードリッヒ大王の「朕は国家の最大の召使である」という言葉や、江戸時代の米沢藩主、上杉鷹山の「国家人民の立てたる君(藩主)にして、君のために立てたる国家人民には之無候」という言葉が出てくる。

正論は、言うは易いが、行うは難しい。だから人は正論を嫌い、避けようとする。けれども、私はあえて正論を掲げ、それに自分の行動を合わせるようにしてきた。「実践躬行」「知行合一」を志すことで、自分を高められると信じているからだ。

その意味で『武士道』には、リーダーとはいかにあるべきかを示唆するものが多く、これまで私の心と行動を支えてくれたと思う。