新渡戸稲造の『武士道』と出合ったのは、北海道大学の学生時代である。新渡戸は札幌農学校(北大の前身)出身だから、ほとんどの学生が彼の業績を知っていた。私も当時、『武士道』は「すごい本だ」と伝え聞いていたものの、そのころ北大の図書館には断片的な文献しかなかったので、細切れに読んだにすぎない。
全編を通して読んだのは、社会人になってからのことだった。特に、奈良本辰也氏の訳本を手にしてからは、何度も読み返すようになった。私が、川崎製鉄の常務を務めていたころである。
1997年に出版された奈良本辰也訳の『武士道』は現代語訳なので、すでにあった矢内原忠雄訳(38年刊)のそれより、読みやすいということもあった。しかし、この本に改めて惹かれたのは、経営者、管理者として学ぶところが多かったからだ。
私が企業人として『武士道』に学んだことは、大きく2つある。一つは「アカウンタビリティー(説明責任)とは何か」であり、もう一つは「義を行う」ことの重要さである。
新渡戸は、37歳の若さで『武士道』を全文英語で著した。しかも、その内容は、ギリシャ、ローマ、中世ヨーロッパ、中国、日本などの歴史や文学、宗教、哲学などを巧みに引用して書かれている。それは驚嘆すべき知識量で、どれほどの書物を読破したのかとうならせるほど。
だが、新渡戸には、それだけの引用を施す必要があったのだろう。『武士道』がアメリカで刊行されたのは1900(明治33)年。欧米人から見れば、当時の日本は東洋の新興国であり、日本人は正体のよくわからない民族だったろう。逆に新渡戸の側からすれば、歴史も文化も価値観も異なる西洋人に対し、日本人の精神性、すなわち心や生き方の話をしようというのだ。とうてい一筋縄ではいかない。
だから新渡戸は、ソクラテスやプラトンをはじめ、西洋人に馴染みのある古今の著作や思想・哲学に東洋のそれを加え、相手に理解しやすい「説明」に努めた。ここが重要だ。
私が常務時代に読んで思ったのは、企業あるいは企業人の考えるアカウンタビリティーが、新渡戸が試みたような丁寧なものになっているかどうかである。「説明」は、相手に理解されなければ意味がない。しかし、企業のアカウンタビリティーは、とかく「説明の体をなしていればよい」というところに陥りがちである。それではいけない。