「すべての人が働く意欲にみちている」
それでもゲバラが注目してやってきたのだから、トヨタは何かを持っていたのだろう。そして、今となっては「ゲバラが来た自動車会社」というのはトヨタにとっては悪いことではない。南米でトヨタの車を販売する時、親しみを持ってもらうことができる。なんといってもゲバラは南米ではいまだに根強い人気を保っているからだ。
ゲバラは日本の生産現場を熱心に見学している。
そして、彼は日本の工業力と日本人の勤勉さに感銘を受けた。作家、三好徹の『チェ・ゲバラ伝』(文春文庫)には次のようなことが載っている。
「かれ(ゲバラ)のその後の文章や演説中に、しばしば日本の工業力をほめる言葉が見られる」(同書)
そして、ゲバラに同行したキューバのフェルナンデス大尉も次のように述べている。
「チェは日本に行く前、日本人の精神力というか、日本の心を高く評価していた。日本人がきわめて勤勉だということも理解しており、日本を訪問国に選んだ動機のひとつにもなっていた。その面について、じっさいに日本へ行き、大阪で工場見学をしたり、東京でソニーの工場を見たりして、その考えが間違っていなかったということを認識した。(中略)
日本の若い世代が非常に進歩的だという感じもうけた。日本の前にインドに行ったときは、国自体がなにかダランとしてゆるんでいるように見えた。少しも働こうとしていなかった。日本では、すべての人が働く意欲にみちていると思った」(同書)
生涯、現場に身を置くことを望んだ
名古屋から大阪へ行った後、ゲバラは自らの意思で当初の訪問予定にはなかった広島へ向かった。「原爆慰霊碑に献花したい」という強い願いからだった。
広島でのことは県の案内役、見口健蔵氏の談話が残っている。
「『眼がじつに澄んでいる人だったことが印象的です。そのこと(原爆について)をいわれたときも、ぎくっとしたことを覚えています。のちに新聞でかれが工業相になったのを知ったとき、あの人物はなるべき人だったな、と思い、その後カストロと別れてボリビアで死んだと聞いたときも、なるほどと思ったことがあります。わたしの気持としては、ゆっくり話せば、たとえば短歌などを話題にして話せる男ではないか、といったふうな感じでした』」(同書)
ゲバラが死んだのは来日してから8年後、ボリビアの山のなかだった。彼は生涯、革命家で、キューバ政府で要職を務めることよりも、現場へ行くことを望んだ。だから、本望だったろう。革命家として現場を愛し、虐げられた人民とともに立ち上がった政治家だった。本来、政治家とはそういうものではないか。
ゲバラはトヨタでも現場を見た。現場にトヨタの本質があると感じたのだろう。
そんなトヨタの本質は今もなお現場にある。現地現物は新体制になっても変わることはない。佐藤(恒治)新社長は会見でこう言っている。
「私はエンジニアで長くクルマ造りに携わってきた。クルマを造ることが大好き。だからこそクルマを造り続ける社長でありたいと思っている」
豊田章男新会長、佐藤恒治新社長はこれまで通り、作業服を着続けるだろう。工場やサーキットにも足を運ぶ。トヨタのトップは現場に行って現場で考える。そして、現場で喜ぶ。革命家、ゲバラのように。