なぜ「日の丸ジェット」は実現できなかったのか

三菱重工業が2月7日、国産初のジェット旅客機「三菱スペースジェット(MSJ)」の開発中止を発表した。開始から15年。航空会社への納入予定を6回も延期した末の撤退だ。国内外の航空会社から300機近くを受注しており、その後始末にも追われる。鳴り物入りで始まった「日の丸ジェット旅客機」の夢は、なぜついえたのか。

次世代半導体の国産化に向け、ベルギーの研究開発機関と協力の覚書を交わした「Rapidus(ラピダス)」の小池淳義社長(中央)。右は西村康稔経済産業相=2022年12月6日午後、東京都千代田区
写真=時事通信フォト
次世代半導体の国産化に向け、ベルギーの研究開発機関と協力の覚書を交わした「Rapidus(ラピダス)」の小池淳義社長(中央)。右は西村康稔経済産業相=2022年12月6日午後、東京都千代田区

「MSJ」というよりも、2019年まで使われていた名称「MRJ(三菱リージョナルジェット)」のほうが、なじみ深いかもしれない。

2008年3月、三菱重工が子会社「三菱航空機」を設立し、ジェット旅客機「MRJ」の開発着手を発表すると、「『YS11』以来、50年ぶりに日本が丸ごと旅客機を造る」と、注目を集めた。

「YS11」は通産省(現・経産省)の主導で国内企業を結集して始まり、1962年に初飛行。2006年に旅客機として最後のフライトを終え、国内定期路線から引退。空港に並ぶ旅客機は海外製ばかりになっていた。

設計変更、検査体制の不備で費用はどんどん膨らみ…

それ以来の日の丸旅客機計画。当初の予定は、「国が500億円、三菱重工が1500億円を投じて旅客機を開発し、2013年に航空会社へ初号機を納入する」というものだった。

三菱重工は、このサイズの旅客機は、20年間で5000機以上の国際的需要があると予測、半数のシェア獲得を目指した。三菱航空機設立の発表前に、早くもANAが25機を発注するなど、まずは好調なスタートを切った。

だが、その後、事態は深刻化、泥沼化の一途をたどる。

設計変更、部品の検査体制の不備など次々と問題が発生し、航空会社への納入は遅れ続ける。

2019年には名称を「三菱スペースジェット(MSJ)」に変更して挽回を図ろうとしたが、20年になると「いったん立ち止まる」と開発を凍結。結局、解凍されることがないまま、終焉しゅうえんを迎えた。

三菱重工が開発に投じた費用は当初予定の1500億円を大幅に超える1兆円規模とみられる。2015年以降、約3900時間の試験飛行も実施した。培った技術や知見は、次期戦闘機の開発などに生かすというが、あまりにも高い勉強代だった。