現地現物を実践したキューバの英雄
エルネスト・ゲバラ(1928年~67年)は、アルゼンチン生まれの政治家、革命家である。愛称でチェ・ゲバラと呼ばれ、フィデル・カストロとともにキューバ革命を達成した。キューバ革命が達成されたのは1959年の1月1日。このへんの雰囲気を知るには『ゴッドファーザー パート2』(1974年)を見ればいい。キューバ革命のシーンがある。
往時、日本の若者の間でゲバラはヒーローだった。ゲバラの顔を描いたTシャツとベルボトムのジーンズをはいた若者が学生運動にのめりこんでいた。ただし、当時の若者は今や70代になっているだろうから、ベルボトムではなく、ユニクロのヒートテックを着ている。
キューバ革命の英雄はカストロだったけれど、若くして死んだゲバラのほうが人気が高かったのである。
革命は現場にいなくてはできない。ゲバラはキューバ革命後、新政府の要職についたが、いつまでも革命家でいたかった。彼は職を捨ててボリビアへ赴き、ふたたび革命に身を投じた。しかし、捕らえられ射殺される。その時、ゲバラはまだ39歳だった。
“無名”のトヨタをなぜ選んだのか
さて、キューバ革命からわずか7カ月後、1959年7月、国立銀行の総裁になっていたゲバラは来日した。政府の通商代表団を率いて日本にやってきたのだが、日本共産党との友好関係を樹立するためにやってきたわけではない。ゲバラの役目は日本との交易、通商関係を進めることだった。世界同時革命の達成が目的ではなかった。
日程は東京、名古屋、大阪における工場見学が主だ。東京ではソニー、名古屋では新三菱重工業(現三菱重工業)とトヨタ。大阪では久保田鉄工(現クボタ)の工場を見学している。社長や会長との懇談ではなく、メーカーの現場を回って、現地現物を実践したのだった。
トヨタで見学したのはトラックとジープの生産ラインである。残念なことにトヨタにおけるゲバラの言動は残っていない。当時の日本人にとってキューバは共産主義国家であり、ゲバラはその幹部だ。日本の企業としては礼儀は守ったけれど、歓待したわけではなかった。
何より当時のトヨタはまだグローバル企業ではない。乗用車もクラウンとコロナしか出していなかった。販売台数は約30万台。日産は約20万台だったが、どちらも商用車が主だった。アメリカのビッグ3に比べれば赤ん坊みたいな自動車会社だった。