その後、ローマ帝国は軍団を率いた軍人皇帝の時代を迎えると、内戦や政治的対立で混乱が続きます。

こんな状態の中で、人々の心を掴んだのがキリスト教でした。ユダヤ教から生まれたキリスト教は、パウロがイエスから指示されたとされるように、ユダヤ人だけを対象とするのではなく、「異邦人」にも布教をします。異邦人つまりローマ帝国内に暮らす人々です。

こうして各地にキリスト教徒の共同体が形成されていきます。教会の成立です。

2世紀半ばまでにはキリスト教独自の信仰の形が整います。キリストが復活したとされる日曜日には、毎週信者たちが教会に集まり、聖歌を歌い、神父の説教を聞きます。信者になりたいという希望者には洗礼の儀式が定められました。

一方、混乱が続く帝国内では格差が広がります。社会の底辺に位置することになった人々はキリスト教に救いを求めます。信者たちは互いに助け合って暮らしますが、キリスト教徒以外から見れば、まるで秘密結社のように見られてしまいます。

なぜキリスト教徒が迫害されたのか

その結果、キリスト教徒に対する迫害が始まります。もともとローマ帝国は宗教に寛容で、ローマの神々や神格化された皇帝の像を礼拝さえすれば、他の宗教は容認されていました。

ところがキリスト教徒は偶像崇拝を拒否し、神の前での平等を重んじて皇帝を崇拝することも拒否したため、激しい弾圧を受けるようになります。

有名な迫害は第5代皇帝ネロによる迫害です。ネロは紀元54年に第4代皇帝の伯父の死去に伴い、わずか16歳で即位します。

当初は哲学者セネカの指導を受けて政治をしていましたが、やがて何かと口を出す母を殺害。さらにはセネカも死に追いやったとされています。

紀元64年にはローマが大火に見舞われます。

この火事は、新しい都市計画を実現するためにネロ自身が放火したという噂が立つと、ネロはキリスト教徒を放火犯に仕立てて、大弾圧を始めます。キリスト教徒を猛獣の餌食にしたり、十字架にかけたり、松明代わりに燃やしたりしたと伝えられています。

このとき、キリスト教の最高指導者として捕らえられたペトロも、逆さまに十字架にかけられて殉教しました。パウロもこのときローマで殉教したとされています。

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このような歴代皇帝による迫害を逃れるため、キリスト教徒たちが建設したのが「カタコンベ」(地下墓所)でした。

キリスト教では(イスラム教も同じですが)、世界の終わりが来たとき、神の前に引き出されて最後の審判を受けるため、肉体が必要とされます。このためヒンズー教や仏教のような火葬は一般的ではなく、遺体はそのまま埋葬されます。

キリスト教徒たちは、目立たないように地下に墓所を作り、ここに集まって祈りを捧げていました。

こうして信者が集まって定期的に礼拝をするようになると、よからぬことを企む「秘密結社」ではないかという疑惑を招き、特に3世紀半ばには厳しく弾圧され、多くの殉教者を出しました。