駅の「酔落注意!」のポスターに感じた違和感

――日本の飲酒文化の中で、どのような面に最も衝撃を受けましたか。

まず、日本では、人々が「公の場で泥酔する」ことを前提にしたインフラが築かれていることだ。(特定の機会だけでなく)年がら年中、人前で酔っぱらうことについて、その是非すら問うことがない。人々が酔っぱらうことを前提にしたインフラが見事なまでに整備されている。例えば、駅に備え付けられている「吐瀉としゃ物専用掃除機」が好例だ。

また、私が過去十何年間、日本に行くたびに撮り続けている駅のポスターもそうだ。JRや地下鉄の駅には、「酔落注意!」「転落注意」「危ないっ‼」といったポスターが何枚も貼られている。1年前、東京に滞在した時に撮ったポスターには、「ホームで起こる人身傷害事故のうち、2人に1人がお酒に酔ったお客さまです」と書かれている。

撮影=ポール・クリステンセン准教授
(左)入谷駅にて(中央)人形町駅にて(右)小川町駅にて

「お酒を飲んだら、ホームから落ちないよう気を付けましょう」「危ないと思ったら、迷わず非常停止ボタンを押してください」といった呼びかけは、とてもいいと思う。だが、「そんなにしょっちゅう、こんなことがあっていいのか」「自分の命を危険にさらすほど深酒をすべきなのか」という根本的な問いかけは決してなされない。

つまり、ホームから落ちるほど飲みすぎる乗客がいることを前提にポスターが作られているのだ。

日本の飲酒対策用インフラの充実ぶりには目を見張るものがある。とはいえ、そもそも人前で泥酔すること自体に疑問を呈さないのはいかがなものか。私が日本の飲酒文化で衝撃を受けたのは、この点だ。衝撃という言葉が少し大げさだとしても、その点に間違いなく興味をそそられた。

日本では泥酔することが容認されている

――『日本、アルコール依存症、そして、男らしさ』(仮題)の序文によると、あなたは、「日本でアルコールがどのように消費され、規制されているか」に関心を持ったといいます。そして、「人々が驚くべき頻度で深酒し、駅のホームで吐いたり、公の場で酔っぱらったり、至る所で酔いつぶれて寝込んだり」しても、誰も気に留めず、駅員が淡々と掃除するだけだという事実にも興味を持ったそうですね。

日本を外から眺めると、そう見える。そう感じるのは、アメリカ人だけではないだろう。もちろん、世界のどの国でも、酔っぱらう人々はいる。特に大きなイベントなどがあれば、そうだろう。例えば、アメリカだったら、2月初めに開かれるアメリカンフットボールの一大祭典「スーパーボウル」だ。

しかし、日本では、それが日常的に起こる。木曜日や金曜日、土曜日の夜ともなると、東京など、多くの主要都市で人々が泥酔し、自著の中で説明したような光景が繰り広げられる。私には、それが驚きだった。日本を訪れる外国人の多くも、ひとたび夜の街に繰り出せば、同じように感じるはずだ。

――日本社会では、街中や駅のホーム、車内で酔いつぶれることが容認されています。

問題は、どこまでが正常で、どこまでが容認されるべきなのかという、人々の見方だ。毎晩、そうした光景を目にしていたら、それが生活の一部であるかのように思ってしまう。そして、何の疑問も持たなくなる。

飲酒問題について考えることは、(お酒をポジティブに捉える)日本社会、そして、その社会的期待に疑問を呈することを意味する。それが、日本の人々が飲酒問題で直面している本質と言える。