ニューヨークに吐瀉物が見当たらないワケ

――昨年末、ニューヨーク・マンハッタンの中心にある繁華街「タイムズスクエア」を何ブロックも歩きました。人であふれ返っていましたが、東京の街と違い、飲みすぎによる吐瀉物と思われるようなものは見かけませんでした。

まず、日本ではアメリカと違い、アルコールへのアクセスが容易だという構造的な問題がある。

注:アメリカでは、日本と同様にアルコール購入における年齢確認が制度化されている。加えて、酒類の自動販売機はなく、ニューヨーク市をはじめ、大半の都市で、路上や公園といった公共の場での飲酒が法的に禁じられているなど、アルコールへのアクセスに制限がある。

また、日本では、飲みすぎて駅のホームや居酒屋の店内などを汚しても、駅員や店員が掃除をしてくれることが前提になっている。駅などを汚す人が多いのは、こうした認識によるところが大きいのではないか。

ニューヨークをはじめ、人口が多い主要都市では、地下鉄など、公共交通機関の車内で吐こうものなら、目を付けられ、狙われる可能性がある。一部の乗客が怒り出したり、不快に思ったりし、自分の身を危険にさらすことになりかねない。

日本の飲酒文化に存在する「ジェンダー」

――書籍の第2章「聖なるお酒」には、日本では、男同士でお酒を飲むことが「男らしさ・男性としての強さ」を意味すると書かれています。そして、力強さの象徴である、著名なスポーツ選手をアルコールのコマーシャルに起用することが飲酒に対する寛容な見方を助長する、と。日本で、アルコールの消費と男らしさ・男性としての強さを結び付ける文化が生まれた背景を教えてください。

ひと言では説明しがたい。例えば、同じ日本でも、地域によって、その二つが、より密接に結び付いているとされる所もある。男同士で杯を酌み交わしながら交流を深めることで、アルコールが、社会的な絆を保つ「接着剤」のような役割を果たしているのだ。

一方、日本全体に目を向けると、第2次世界大戦以降、1960年代から80年代にかけて、日本経済が目を見張るような成長を遂げ、右肩上がりだった時、「サラリーマン」を中心とする男性社会と飲酒文化という特別な構造が出来上がった。

男性が一家の大黒柱として、お金を稼ぎ、専業主婦の妻が家を守るという役割分担の下で、男たちは終業後、街に繰り出し、大いに飲んだ。今日も一日、一生懸命働いた自分への「ご褒美」として。そして、仕事仲間との絆を深め、人間関係を円滑にし、一丸となって、より大きな成果を上げるための「手段」として。

日本が敗戦から立ち直り、再建される過程で、そうした役割分担が強化された。そして、汗水垂らして働いた後はお酒で男同士の結び付きを深める、という考え方が社会に根付き、当たり前のことになった。

1990年代初めのバブル崩壊後、お金のかかる飲み会の機会が減り、そうした考え方に若干疑問が呈され始めたとはいえ、まだまだ健在だと思う。日本で、飲酒と、男としての強さという概念が戦後の高度経済成長と結び付いていたことに、大いに興味を引かれる。