決して円満ではなかった夫婦生活

元康は比較的早い時期に妻子を取り戻している。

元康が信長と同盟を結んだのは、三河国(愛知県東部)の東部へと領国を拡大したいという彼の思惑が、三河方面の不安を払拭して美濃の斎藤氏を攻めたい信長のそれと一致したからだった。そして、永禄4年(1561)の春以降、元康は三河東部に侵攻し、しばらくのあいだ、各地で松平対今川の合戦が繰り広げられた。

築山殿の肖像(写真=西来院所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

その合戦のひとつとして、元康は永禄5年(1562)、上之郷城(愛知県蒲郡市)を攻略して、城主の鵜殿長照を討ち取り、その息子2人を生け捕りにした。そして、この2人と、駿府(静岡市)の今川氏真之もとにいた元康の妻子3人との交換が成立。妻子は岡崎(愛知県岡崎市)の家康のもとに取り戻されたのである(築山殿と亀姫はそれ以前に岡崎にきていた、という主張もある)。

とはいえ、築山殿は今川家の御一家衆である関口氏純の娘。今川家と縁を切るように岡崎に来るのは、それはそれで複雑な気持ちであったことは想像にかたくない。このことが原因で、元康と築山殿が不仲になったという説もある。

一方、永禄6年(1563)3月には、竹千代と信長の次女である徳姫との婚約が成立している(結婚は永禄9年か10年)。もちろん、織田家との同盟強化が目的だが、じつは、結果的にではあるが、この結婚も将来に禍根を残すことになる。

「初恋の相手」と永久の別居

元康との仲はともかくとしても、築山殿は岡崎に移ってからも城外の築山屋敷に住み、元康とは別居状態だったようだ。

ちなみに、元康は永禄6年(1563)7月に今川義元からもらった「元」の字を捨てて「家康」と改名。同9年(1566)に今川を排除して三河一国を統一すると、姓を「徳川」とあらためている。

自分の母体であった今川の排除と比例しての夫の勢力拡大に、築山殿はどんな気持ちを抱いていたことだろうか。

そして、戦国大名としての今川氏が滅亡した翌年の元亀元年(1570)6月、家康は領国が遠江国(静岡県西部)にまで拡大したのを機に、その支配を目的に、居城を岡崎城から浜松城(静岡県浜松市)に移した。

そのとき岡崎城は、同年8月に元服した竹千代あらため信康にまかせたのだが、築山殿も家康にともなって浜松に移ることなく、岡崎の築山屋敷に残った。こののち、築山殿が家康と同居することは二度となかった。