パーンという警策を打つ音が響き渡った

やがて堂内に鐘の音が静かに響いた。坐禅の始まりである。新参者に坐禅の要領を教える声などがボソボソと聞こえていたのだが、一気に静まり堂内はぴりぴりとした緊張感に包まれる。

(左)警策を持つ直堂。顔の表情を全く変えず、そろりそろりと歩く。
(右)坐禅を組む、藤原智美氏。

坐禅中に気をつけなければならないのは「調息(ちょうそく)」。といっても自然のままの呼吸なのだが、これもまた難しい。リズミカルに静かにいつも通りの息をしようと心掛けると、かえって気になってくる。意識がそちらに向かい坐ることがおろそかになるのだ。

これでは「調心」できない。すなわち雑念を右から左へ流して、何も考えずただ坐るということだが、呼吸程度のことが気になっては「調心」どころではなくなる。

「坐禅は全身に気迫が充ちていなければならない」という『参禅要領』の文言が思い浮かぶが、同時にこうも書かれているから厄介である。

「過度の緊張をほぐして自然に、すっきりと、のびのび坐る事」

気迫と緊張の違いは、わかるようでいてはっきりしない。ましてやそれを体で会得するとなると……。

坐禅は当然、一人で自宅でもできる。実際にこの坐禅会に通ってくる人の中には、自宅坐禅を実践している人もいる。しかし自宅坐禅と坐禅堂での坐禅は大きな違いがある。まず坐禅堂のような静かで心落ち着く身近な空間がなかなかない。それにもまして自宅には直堂(じきどう)がいない。まさに直堂こそが坐禅にとってキーポイントとなる。

直堂。すなわち警策(きょうさく)というあの平たく長い棒を携えながら禅堂を見回る人である。坐禅に乱れがあると遠慮なく肩を打ちすえる。

坐禅に入る前に「みずから申し出て、警策で打ってもらう人もいます」と聞いた。気合を入れるため、まず打ってもらうという人もいるらしい。ということは、それほど痛くはないのだろう、と私はたかをくくっていた。

ところがである。事は隣で起こった。坐っているのは、姿勢正しく坐禅が堂に入った参禅者だった。彼の背後で直堂の足がぴたりと止まった。いやな予感がした。するとパーンという警策を打つ音が響き渡った。警策が折れんばかりの音が私の耳の真横で響いたのである。私はあたかも自分が打たれたかのような衝撃を受けて、正直、ビビッた。

※すべて雑誌掲載当時

(的野弘路=撮影)
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