実朝暗殺の伏線を無理矢理に設定

実朝は和歌などを通じて後鳥羽上皇と交流し、上皇を敬っていた。子供ができないため、上皇の子息である親王を将軍に迎え、自分はその補佐役になろうと考え、上皇は上皇で、実朝を親王将軍の補佐役にふさわしい地位にするために、異例の出世をさせた。これは史実である。

だが、一方で実朝は、鎌倉殿としての自負も持っていたと考えないと筋が通らない。

自分の左近衛大将任官の拝賀行列に並ぶために、鎌倉に下向した大江広元の次男が京都に帰ろうとしたとき、実朝は激怒して「所存の企て、関東を褊するに似たるなり(その行動は幕府を見下している)」と伝えている。いったん鎌倉に来た以上、また朝廷に仕えたいなんて、もってのほかだというのだ。

武士の府である鎌倉の統治者としての自信と誇りがなければ、こうは言えないだろう。ところが、第44話「審判の日」で、実朝は義時に「いずれ京に行く。御所を西に、内裏に近い六波羅に移すつもりだ」と語っている。そして、その発言が彼の暗殺につながるという描き方をしているのだ。

実朝暗殺は単独犯行だった

しかも、実朝暗殺という鎌倉最大の悲劇の描き方が、悲劇をドラマティックに盛り上げようとするあまり、史料から読み取れる内容と、かなり異なっていた。

吾妻鏡』や『愚管抄』からわかるのは、八幡宮の石段を下る実朝の前に、頼家の遺児の公暁が太刀を持って飛び出し、「親の仇」云々と言って実朝の頭部に斬りつけ、倒れた実朝の首をはね、さらには太刀持ち役を北条義時と交代していた源仲章を、義時と間違えて斬った。そして、実朝の首を持って逃走した。それだけだ。

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昔から、公暁がだれかに操られていたという説はある。北条義時黒幕説、三浦義村黒幕説……。しかし、そもそも親王将軍の擁立は実朝の暴走ではなく、政子や義時も一緒になって進めてきたこと。それに関して意見の対立があったとは考えられず、実朝が死んでも義時が利するところはない。そう考える研究者が多い。

義村にしても、たしかに公暁の乳母夫ではあるが、これまで一貫して体制を擁護することで家を守り続けてきた彼が、ここでそんなリスクを冒すだろうか。

それに、こうしたクーデターは、事前に漏れればまずつぶされる。将軍を殺すなどという大それた計画について、いくら乳母夫だからといって、義村に漏らすとは思えない。だから今日では、実朝暗殺は公暁の単独犯行だったというのが通説になっている。