3代将軍実朝と後鳥羽上皇の本当の関係
尾上松也演じる後鳥羽上皇の存在感が、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」のなかで高まってきた。3代将軍源実朝を思いのままに遠隔操作して、幕府を事実上の支配下に置こうともくろみ、そのための布石を着々と打つ。そんな様子が大河ドラマにも描かれている。
2代将軍頼家が死去した建仁3年(1203)、弟の千幡を鎌倉殿に擁立したいという申請を幕府から受けた際、後鳥羽上皇みずから「実朝」という名を授けたのにはじまり、翌年には自分の従妹を実朝に嫁がせた。
後鳥羽は和歌の達人で、元久2年(1205)、自身の勅撰和歌集『新古今和歌集』を完成させているが、実朝も和歌に才能を発揮した。それもあって後鳥羽上皇に心酔し、
「山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも」
と詠んでいる。山が裂けて海が干からびるような世になろうとも、後鳥羽上皇を裏切るようなことがありましょうか、という意味である。
実朝が後鳥羽上皇に、大河ドラマに描かれているほど恭順の意を心底抱いていたのかというと、じつは異論も多い。幕府は朝廷と並立する武家の府だという強い自負を実朝はもっていた、ともいう。
それでも、実朝が後鳥羽を和歌の師として尊崇し、後鳥羽がそういう実朝を利用したのはまちがいない。
後鳥羽上皇の知略。だが、それはのちにものの見事に失敗し、歴代天皇のなかでもきわめて残念な境遇に追いやられ、朝廷の権威そのものの大きな凋落を招いたことを、私たちは知っている。
後鳥羽上皇ほど多才な天皇はいない
後鳥羽上皇ほど多才な天皇および上皇は、長い皇室の歴史のなかに、ほとんどいないのではないだろうか。
平家が異母弟の安徳天皇を連れて都落ちしたのち、後白河法皇の後ろ盾で、わずか4歳で即位。安徳天皇が壇ノ浦に沈むまでの2年ほど、在位期間が重なっている。しかし、天皇の正統性を保証する三種の神器がないままの即位で、しかも神器のうちの宝剣は、平家と一緒に海に沈んでしまった。このため、強いコンプレックスを抱いていたとされる。
建久3年(1193)に後白河法皇が死去すると、13歳にして天皇親政を開始し、同9年(1198)に土御門天皇に譲位。それからは上皇として、天皇としてのしがらみに縛られることなく、「治天の君」として能力を存分に発揮していく。
まず、和歌に関しては時代を代表する歌人で、譲位した頃から大きく腕を上げ、歌合や歌会を盛んに行った。たとえば正治2年(1200)には、歌人たちにそれぞれ100首ずつ和歌を詠ませる「百首和歌」を2度開催。翌年には「千五百番歌合」という空前のイベントを主宰し、勅撰集の編纂につながっていった。上皇としては初めて、和歌の優劣を判断する判者も務めている。