政子の機転が上回った
しかし、そこは幕府が上手だった。尼将軍となっていた政子は、後鳥羽が義時ではなく、幕府そのものを倒そうとしているかのように情報操作し、御家人の危機感をあおったうえで、3代の将軍の「山よりも高く海よりも深い恩」に報いるべく、幕府に奉公するように御家人を説得した。
それを聞いて、御家人は情にほだされたのではない。幕府についたほうが、所領が安堵される可能性が高いと踏んだのである。
それでも義時ら幕府首脳部は、積極的に京に攻め上るか、鎌倉で上皇の軍を迎え撃つか決めかね、迎撃を主張する声のほうが大きかった。京都を攻めて朝敵の汚名を着せられるのは、義時だって避けたかったのだ。
そこに、鎌倉殿の13人の一人、大江広元が「時間が経てば東国の御家人の決心も揺らぐ。北条泰時一人でも出陣すれば、みな後に続く」と説いた。同じく重臣の三善康信も同意見だったことから、承久3年(1221)5月22日、泰時はわずか18騎で出陣。幕府軍はたちまち数万人にふくらんだ。
自身の権威を過信しすぎた
後鳥羽上皇方の軍勢は在京御家人が中心だが、彼らの多くは、そもそもは東国の出身者。東国の御家人たちの傍流であるケースが多く、戦場経験も本流に劣る。ひとたびこうした流れができると、軍事力で太刀打ちできるはずがない。
しかし、後鳥羽にはいくらでも勝ちようがあった。自分で北条義時追討の宮宣旨を出しておきながら、急いで鎌倉を攻めようとしなかったのが問題で、上皇の軍に攻められれば、逆賊になるのが嫌な御家人たちが、続々となびいただろう。
逆にいえば、後鳥羽は「官軍」の権威を過信し、「賊軍」が攻めてくることなど想像もしなかった。
自らが「官軍」であることを、もっと積極的に訴えるだけでも、結果は違っただろう。のちの戊辰戦争では、錦の御旗を見せられた徳川幕府軍は戦意を大きく喪失し、各藩も続々と官軍になびいた。だが、万能であるがゆえに自身の権威を過信した後鳥羽は、もっとも肝心な工作を怠ってしまった。