義時に怒りを募らせたきっかけ

後鳥羽上皇の目算は狂ったが、将軍を失った幕府も痛い。そこで後鳥羽は揺さぶりをかけた。

幕府に対し、親王の下向を延期すると通達し、一方で、北条義時が摂津国(現大阪府)長江・倉橋荘にもっていた地頭職の解任を命じた。もし解任を拒絶されれば、皇子の下向を中止し、義時を逆賊扱いできるというわけだ。

実際、義時側は後鳥羽上皇の求めを拒んだので、親王の下向話は流れた。だが、幕府が不安定になることは後鳥羽側にとってもマイナスなので、左大臣九条道家の息子で頼朝の遠縁でもある、数え年2歳の三寅を鎌倉に向かわせることにした。

三寅が鎌倉に向かう途中、事件が起きた。在京の御家人で後鳥羽上皇の近臣だった源頼茂が将軍の地位を望んで謀反を起こし、最後は大内裏に火をつけて自害した。後鳥羽は大内裏の再建にこだわったが、幕府の協力が得られなかったので、不満を爆発させたようだ。

実朝の頃と違って冷淡な幕府の態度に、後鳥羽は怒りを募らせ、幕府が自分になびかない元凶と思われる義時を排除し、幕府を自らのコントロール下に置こうという意志を新たにした、というわけである。

「討幕」ではなく「義時追討」が目的

こうして承久の乱が勃発するが、後鳥羽上皇は幕府を倒そうとしたのではない。あくまでも支配下に置こうとした。だから、後鳥羽が発布したのはあくまでも「北条義時追討」の院宣と官宣旨で、「討幕」とは書かれていない。

後鳥羽には幕府を義時派と反義時派に分裂させ、内部崩壊させる狙いもあっただろう。とはいえ、幕府が失われれば御家人をまとめきれないが、弱体化して義時を排除できれば、自身の支配下に置ける。要は、邪魔な経営陣を排除して企業を乗っ取るのと同じ発想で、さすがの策士である。

後鳥羽は幕府の状況をしたたかに読んでいた。鎌倉幕府を支えるのは将軍と御家人のあいだの「御恩と奉公」の関係だった。すなわち、将軍が御家人に土地の支配権が認めてやる(御恩)代わりに、御家人は軍役などに従事する(奉公)。しかし、奉公すべき実朝がいないいま、御家人を揺さぶる絶好の機会だと。