その夜、大垣城では軍議が開かれた。三成の期待した輝元はついに来らず、先に家康が戦場に姿を現した。
かくなる上は、現有兵力をもって地の利を得た場所に待ち構え、雌雄を決すべし。近くの南宮山に布陣している毛利勢などが敵に横激を加えれば勝利は疑いないと一決し、急遽、大垣城を出陣することになった。
関ヶ原に向かったのは、石田三成、島津義弘、小西行長、宇喜多秀家の諸将。戦局は一気に動いた。
東西両軍、関ヶ原へ
三成たちが家康を迎撃しようとした関ヶ原は伊吹山地と鈴鹿山脈に挟まれ、そして中山道、伊勢街道、北国脇往還が分岐する要衝の地であった。この地に防衛線を張り、家康の西上を阻止しようとした。
関ヶ原は笹尾山、松尾山に囲まれており、三成は笹尾山、家康は桃配山に本陣を構えることとなるが、問題は松尾山だった。
三成は松尾山を城郭化することで東軍の西上を防ごうとしていたが、内通の疑いがある小早川勢が占拠してしまう。近くの山中村に布陣していた大谷吉継は、松尾山の友軍と連携して東軍への備えを固めるつもりだったが、一転窮地に陥る。
西軍としては吉継を助けるとともに、大垣城の西軍主力をもって秀秋の寝返りを防がなければならなかった。関ヶ原への転進とは東軍の西上を防ぎ、併せて防禦体制の梃入れも狙ったものであった。
大垣城の西軍が動いたのは午後八時頃だという。三成たちが関ヶ原に向かうことを知った家康は、「明日早朝に出陣する」と全軍に指示した。十四日深夜から十五日払暁にかけ、東西両軍は関ヶ原を目指して進軍する。
いよいよ、関ヶ原の戦いがはじまろうとしていた。
「天下分け目の戦い」は呆気なく終わった
運命の日である慶長五年九月十五日が明けた。
関ヶ原に集結した東軍は七万数千。西軍は八万余。軍勢の数では両軍はほぼ拮抗していたが、西軍で戦闘に参加したのは三成、義弘、行長、秀家、吉継たち三万数千人に過ぎなかった。山中村に布陣していた吉継と連携する形で、三成は笹尾山に布陣する。義弘、行長、秀家も近くに布陣し、東軍を迎撃する構えをとった。
だが、南宮山の毛利勢は動かず、その後ろに布陣していた長束正家、安国寺恵瓊、長宗我部盛親も動かなかった。松尾山に布陣した小早川勢も鳴りを潜めていた。
東軍が赤坂の本陣を出たのは、十五日払暁である。東軍側の諸将は三成たちの出陣を予期しておらず、不意を突かれた格好となったからだ。翌朝になって慌ただしく出陣している。赤坂にいた家康が出陣の準備に入ったのは十五日午前四時のこと。中山道を進み、午前七時、桃配山に本陣を構えた。
東軍の布陣だが、左翼には福島正則、藤堂高虎、京極高知。右翼には黒田長政、細川忠興、田中吉政、加藤嘉明。中軍には井伊直政、本多忠勝、家康の四男・松平忠吉などの徳川勢。中山道垂井宿の辺りには池田輝政、浅野幸長たちを布陣させ、南宮山に布陣する毛利勢などの押さえとした。