九月十一日に家康は清洲城に入ったものの、翌十二日は風邪と称して清洲にとどまる。時間稼ぎをしていたのだ。徳川勢が勢揃いしてから決戦に臨むのが一番望ましかったが、いつ到着するか見当がつかなかった。その間に、西軍から離反させるために調略中の毛利家などが、三成たちの巻き返しに遭って西軍にとどまるかもしれない。
また、秀忠を待っている間に、正則たちが家康の制止を振り切って開戦に及び、三成を屠ってしまっては自分の面目は失われる。あちら立てればこちらが立たぬの状況に家康は追い込まれた。
家康の重臣たちの間でも意見が二つに分かれる。本多忠勝は秀忠勢の到着を待つべきと主張。井伊直政は到着を待たず即時決戦に及ぶべしと主張した。
最終的には、不測の事態を恐れた家康により即時決戦の方針が決まる。不測の事態には、大坂城にとどまる西軍の総帥・毛利輝元の出陣も含まれていた。調略により西軍が内部崩壊の兆しをみせているうちに、家康としては決着をつけなければならなかった。
決戦直前に和睦した毛利勢
追い詰められたのは三成だけではない。賊軍の将の烙印を押された家康もまた追い詰められていた。こうして、両軍開戦は時間の問題となる。
十三日に清洲城を発した家康は、美濃に向かった。その日は岐阜城で宿泊し、翌十四日正午、赤坂に設けられた本陣に入った。家康は金扇の馬印を大垣城に向けて立てる。家康の象徴たる馬印をみた西軍の陣営には大きな衝撃が走った。
三万数千の軍勢が東海道を西上していたことは、さすがに三成も気づいていただろう。だが、家康は自分の象徴である馬印を隠して行軍したため、家康その人が西上しているとは迂闊にも気づかなかったようだ。
よって、金扇の馬印と旌旗が大垣城に向けて一斉に立てられると、西軍の陣営は激しく動揺する。景勝に牽制されて、家康は西上できないはずではなかったのか。
家康着陣により、毛利勢の戦意は完全に失われた。駄目を押された形の毛利勢は、この日、家康との和睦に踏み切るのである。
西軍にとって運命の日
関ヶ原の戦いの前日にあたる九月十四日は、西軍にとって運命の日となった。
家康が赤坂の本陣に到着して西軍に激震が走るなか、かねて家康に内通を申し入れ、その了解を得ていた小早川秀秋の軍勢が関ヶ原近くの松尾山を占領する。
三成は松尾山を城郭化することで東軍の西上を防ぐ構想を持っており、大垣城主・伊藤盛正を守将として置いていた。この松尾山城には大坂から毛利勢を呼び寄せて配備する予定だったが、秀秋は一万余の軍勢をもって守将の盛正を強制的に立ち退かせる。
家康に内通の疑いがあった秀秋が松尾山を占拠したことで、大垣にいた三成は背後に敵を抱える格好となった。このままでは、赤坂の家康率いる東軍と松尾山の小早川勢に挟撃される恐れがあった。