70万通以上の署名、血書、切断した指…
ところがこの海軍側論告が、世論の大きな批判的反響を浴びることになる。すでに被告に同情的な世論が高揚しており、論告に対する弁護側の反対弁論に同調して、被告減刑の請願運動が全国的に広がった。9月19日に出された陸軍側判決が、全員一律求刑禁錮8年に対して4年(実刑3年7カ月)と軽かったのも影響した。
9月末の段階で、すべての府県から約70万通以上の署名が届けられ、なかには教師に指導されたと見られる児童の作文や、血書および切断した指の類までが送られたケースもあった。
新聞以外のメディアも大衆の行動を促した。新潮社の大衆娯楽誌『日の出』は11月号別冊「五・一五事件の人々と獄中の手記」を発刊した。これには被告のグラビアや留守家族の報道、そして各被告の事件に至る経緯が、小説風の読み物や戯曲などのストーリー仕立てで掲載されている。当時普及が進んだレコード盤でも、三上卓作詞「青年日本の歌(昭和維新の歌)」をはじめ、「五・一五事件昭和維新行進曲」「五・一五音頭」「五・一五事件血涙の法廷」などのタイトルが、発売禁止措置を受けながら一部に流布された。
ここに減刑運動は、一部の国家主義運動団体の主催にとどまらず、「寧ろ純真なる意図の下に自然発生的に一般有志に依り開始せらるるもの」となり、様々なメディアを通して一般大衆に浸透していったのである。
「赤穂義士」「大衆の代弁者」と称えられる
大衆は被告の主張に、どのように共感していったのか。匂坂検察官のもとに届いた、ある女工の手紙がある。
メディアで公判の報道に触れるまで、彼女は犬養老首相が銃撃で殺されたことに、内心で反感を抱いていた。ところが、ニュースでまだ若い被告らの「社会に対する立派なお考え」を聞いたことで、彼女はそれまでの「誤解」を「まことに恥ずかしく」感じた。彼女自身は凶作地出身の身の上である。昭和恐慌以来続く農村の惨状を思い、「私共世の中から捨てられた様な貧乏人達の為にどれだけ頼母しいお働きであったか」との感慨を、被告の弁論のなかに見出した。
こうして彼女は、わずかばかりの金銭に添えて、この手紙を書き送ったのである。昭和恐慌の不況によって社会に絶望した人々は、若者が「純真な」思いで世直しを企てた事件とみなし、ある種の救いと捉えて、強い共感を抱いたものといえよう。
事件の被告らは国家改造運動の一部に根強くあったクーデターによる権力奪取を否定し、自らを「捨て石」と位置付けた。そのこともあって、世間では青年将校たちを、主君の仇討ちのために命を捨てた「赤穂義士」になぞらえて称える観方が定着した。
彼らがクーデターを放棄したのは、現実的な兵力や準備の不足による、やむをえない選択であった。だが、かえってそのことが被告らの「純真」性を強調し、世間が事件をエリート間の政治抗争ではなく、利己心を捨てた「大衆の代弁者」による蹶起と位置付けることにつながったのではないだろうか。