被告の「慨世憂国の言葉」は広く報道された
すでにこの頃の陸軍は、五・一五事件の後に政党政治の停止を主張し、政治の「革新」を目指す態度を明確にしていた。元候補生たちは直接首相に銃撃を加えておらず、従犯のため重罪にはならないと想定もされていた。きわめて有利な法廷の場で、元候補生たちは思う存分に素志を述べることができた。
曰く、特権支配階級の腐敗。曰く、深刻な不況にあえぐ農民や労働者の窮状。それを放置する政治の無策。「これらの慨世憂国の言葉は咽喉元に向つて擬せられた匕首のやうな鋭さと凄みを以てその目的物に迫り、極めて強く国民大衆の胸に触れて行つた」と、先の傍聴記は記す。
さらにこの公判の前後には、満州事変などをきっかけとして、新聞メディアも陸軍への接近を始めていた。事件の直後、陸軍の要望によって、新聞は軍の威信にかかわるような事件の詳報を禁じられていた。
地方紙のなかには、桐生悠々の「信濃毎日新聞」のように事件を批判する報道もあったが、在郷軍人の不買運動などの影響力は強く、地方紙もほどなく論調を変えていく。陸軍の「認」を得た被告の主張が、国民へ広範に伝えられる素地はすでにできていたのである。
これらのことを考えると、古賀海軍中尉が事件計画の段階で、陸軍の一部分を取り入れるために陸軍士官候補生のグループと結んだことは、結果として、世論の後援を得るうえで重大な意味があったと見ることができよう。
海軍軍法会議では3被告に死刑求刑
他方で、海軍側の公判基調は陸軍と異なっていた。その理由は、海軍将校が計画の中心を担ったことに加えて、海軍側の被告が軍縮政策を批判したことにある。1930年に調印されたロンドン海軍軍縮条約をめぐる海軍部内の対立には、まだ完全な決着はついておらず、軍縮を支持する海軍軍人たちも存在していた。被告の級友や教官、あるいは軍縮条約に反対する軍人たちは被告を応援したが、それは海軍部内の統一された声では必ずしもなかった。
9月11日、海軍軍法会議の山本孝治検察官は法廷で論告を行い、3被告に死刑を求刑した。論告は被告の犯行の違法性を指摘して、直接行動を非難し、さらに「軍人勅諭」「軍人訓戒」を引いて軍人の政治関与自体を強く戒めるものであった。
そして重要なこととして、論告は検察官が独力で作る建て前となっているが、実際は大角岑生海相ら海軍中枢が関与し、相互に確認したうえで出されたことがわかっている(「岩村清一日記」など)。つまり論告は、海軍の組織としての見解でもあった。